天井まで届かんとする鼈甲色に、その騎士は微笑んだ。



 あや



飛天族の誇るもののひとつに王国立の図書館がある。その蔵書量や種類は全国屈指との呼び声が高く、事実総面積と冊数であれば群を抜いていた。国立図書館の他に王宮付きの図書室もあり、それらは国民の誰もが自由に使用することができた。
誇るものが書物にあれば、当然と消費の興味もそちらに流れることになる。街のあらゆる角には書屋があり、古本を扱う店もことさらに多い。その佇まいはどこも整然としていて、埃を被ったり順序が乱れているということは殆どない。本について聞かれた店主はすぐさまそれを取り出すことを容易にしていたし、客は客で目が利いた。
そういったありかたを国民は尊び、書屋に向かう事と同様に図書館へ通うことを日常としているものも少なくはない。
民だけではなく、当然に王宮仕えの騎士にもそういった者はいた。
彼もまたその一人だった。


彼は騎士として王宮に上がった時から図書室に通うことをしていた。それは他の誰よりも頻繁に、そして長く。
その姿は、彼の外見からは不具合なものだったが、誰としてそれを省みる民はいなかった。むしろなんと勤勉だろうかと思うくらいだった。
そうやって誰にも興を向けられない事は彼にとっては幸いだった。剣の稽古と所作の講義を済ませた後は、一人、図書室に篭り本を読む。本当であれば必要のない脚立は、他国の重鎮などが来たときに覗くことがあるから置かれているのだが、時にはその上に座ることもしながら。いわゆる『お行儀の良くないこと』として、貴人にでも見られたなら悲鳴を上げられるだろう姿だが、幸いとでも言おうか、そういった類の人種とまみえたことはまだなかった。そして他の騎士については、見られたところで殊更に咎められることはなかった。―――彼の格好、と言うよりは翼の奇異さにばかり目をやられていたからである。形の奇抜さは、なって、陰口までである。それを彼は十分に知っていた。
脚立の上に座った彼は、そのままの格好で本を読み出す。昼間だが脚立の上は暗い。窓に背を向けた棚の上などは、蝋燭を―――危険なので本当ならば止めた方がいいのだろうが―――持ち出さなければ見えないほど。だが彼はそれを何事でもないかのように登り、本を読み出す。軽く背中を丸めて、唇に右親指のあたりを擦りつけながら。瞬きは恐ろしいほどに少ない。
そうやって、一冊について大体二日ばかりの時間をかけて、彼は本を読んだ。
彼は本をただ読んでいる訳ではなく、読んだものを自室に帰ってからは紙に写していた。メモは取らない。本自体を借りるわけでもない。ひたすら記憶を辿ることだけで、本の、いわばコピーを作りつづけていた。
その理由は誰の知る所ではなかった。それ以前に、彼が自室でそういった作業をしているのを知っている者自体がいなかった。ただ彼が、その奇抜な風体に見合わず熱心に図書室に通い詰める姿が見られているだけだった。
図書室に通うことを当然とする国風は、だから本を読むことにはうってつけだったし、脚立に座っていても咎めだての少ない事は、本を読み込む―――集中する―――ためには喜ばしいことこの上なかった。

図書室は万人に開放されているが、それでも王宮付きであることから、民への開放は早い時間に締められていた。逆に王宮付きの騎士であれば、ほぼ一日中の出入りが約束されている。時間の鐘が鳴れば、民はそろそろとそこを後にした。そして残った王宮の人間によって、灯かりが強められ、昼間よりも一層の静けさだけが、本棚の間に満ちるのである。

―――というのが、道理である。
その日、図書館の灯かりが強まることはなかった。昼間のためのごくごく薄い光だけが相変らず室内に満ちていて、日の傾いた事でその威力は恐ろしいほどに小さくなって見えた。彼は相変らず脚立に腰かけたままだったが、灯かりのか細い事を全く気にする素振りはなかった。それどころか伏せ気味だった瞼は、昼間よりも開いていた。
実は昨日もこうだった。おとといも、その前も。
鐘が鳴り、民が規則正しく城下へと戻り、そうしてそこに居残っている者はただひとり。彼だけだったのである。
民はそれを知らないし、気にしていない。目に届くところに、少々奇抜で行儀は悪いが常に本を抱えている騎士、つまり彼を見止めているからである。我らが騎士様は、ああやって真面目にやってらっしゃる。そういうイメージで、民は他の騎士や宮のものの居ない事を穴埋めているのである。あの騎士様がいらっしゃるのだから、他の方だって、どこかにはいらっしゃる、と。
そういう誤解が、果たして良い事なのかそうではないのか。
その判別とはまた別に、図書室の現状について肩を怒らせている騎士が一人、とうとう彼の足元にやってきた。



「おい」
呼びかけに、彼は動くことをしなかった。
「おい貴様」
やはり彼は動かない。呼びかけた方は業腹な様子で、今度は彼の名を呼んだ。
「シェイド!」
「聞こえてますよ」
「ならば何故返事をせん。耳めくらか貴様は」
「耳はいい方ですよ」
「そんな事は聞いていない」
「俺が耳めくらなら、貴方は何ですか」
「なんだと?」
シェイドは本を読む事をやっと中断し、呼びかけた方へと向き直った。脚立の上からだったので見下ろす形になってはいるが、シェイドはそれを改めて気にするふうもない。
「ひとを呼ぶのに名前ではなく、ひとを表現するのに差別の言葉しか出さない。それが神聖を冠する騎士の有り方なんですか」
そしてまたすぐ、本に戻る。脚立の下では騎士の金髪が、ゆるやかに上下した。憤怒をどうにかやり過ごそうと、呼吸を整えているからだった。口調が丁寧であることもまた怒張を誘う。内容さえもがシェイドの方が正しかった。正しいというよりはむしろ冷静、なのだが、それこそその判断を下せるだけの冷静さは彼には残っていなかった。ようやっと、彼の金髪が動かなくなった頃、まるで計ったかのようにシェイドが口を開いた。
「それで、ここには何の御用ですか?」
意表を突かれたとはまさにこの事だろう。出端をくじかれたようでまたも彼は気分を損ねた。…ここまで彼が機嫌を損ねる理由は、実の所はっきりしていた。彼は―――ナルサスは、とかく己のペースで事が運ばない事が嫌いだった。生まれついての気性もさる事ながら、地位も実力もあったために先頭に立てない、ということが考えになはいのだ。それが、シェイドと相対すると大概はこうなった。常に先へ先へと話が突き動かされるのだ。しかもそれは―――シェイドの知己からきているものだった。粗雑で小汚い印象しか持てない、ただの獣のくせに、と、ナルサスは思うしか術がない。それがどう足掻いても認めたくない、屈辱の事柄なのだから、話すだけでも憤怒の形相にもなってしまうのだ。
だが、本題を話さなければ、という義務感が、ナルサスの金髪を正常に留める。一呼吸置いて、ナルサスは口を開いた。


「貴様がここに居座るようになってから、他の騎士達が来れなくなっているのだ」
「何故です?」
口調は、まったく上の空でシェイドが答える。道理で静かな訳ですね、とは、ひとりごとにしては大きく。
「貴様のような薄気味の悪い輩が居るかと思うと、安心して通えんと、そういうことだ!」
「ああ、そうですか」
矢張り興味は無いと言った風でシェイドは答えた。だが、体を起こし、本を閉じながら。閉じた本を丁寧に元の場所に戻すと、脚立から飛び降りる。当然だが音もなく床に着き、ナルサスのすぐ脇へと歩み寄った。ナルサスは脚立の前、扉側に立っていた。翼があるのだから、ナルサスを飛び越えればいいようなものだが、シェイドはあえてそれをしなかった。あまり上質ではない一般兵の靴底は、鈍い音を立てる。凡そ頭半分ほどの差をすぐ隣に持って来た時、シェイドは上目をして口を開いた。
「バッカじゃねえの」
「…何だとっ!?」
「図書室では静かに」
にんまりとした口の端に、牙。あからさまな軽蔑である。
「こ…っ!」
「本を読みに来てんじゃねぇか。それを気味が悪いだと?」
シェイドは、とても静かに口を開く。顔はもう、何ひとつの表情を消していた。瞬きをして、瞼を開いた奥にあったのは、まさしく氷とも見えるような据えた瞳。
「貴様らのそういうアタマの方が、よっぽど薄ら寒いぜ」
ナルサスは動くことなく―――動くことも出来ずに、隣にシェイドを見送った。理由などはっきりしている。この僅かなやり取りででさえ、どちらが真に正しく、公平であるかが分かってしまったからである。だが、それでも矢張り腹は収まらない。煩雑な音を立てる靴底のせいで、シェイドの位置は、ナルサスには掴めた。扉に手をかける、その直前にナルサスは弾くように振りかえり、
「シェイド!」
叫んだ。
「……まだ何か?」
いい加減、といった顔のシェイドがゆるゆると振りかえり、それがまたナルサスには気に入らない。
「貴公、は、以前は城下の、図書館に通っていたと聞いたが」
「はい、そうです」
口調が丁寧なものに戻っている。まともな会話を拒む姿勢だと、今度こそナルサスには理解できた。
「ではなぜ今は、こちらにばかり通うのかね」
「……いい加減、頭の使い方を覚えた方が宜しいのではないでしょうかね」
肩を、僅かに揺する。
「あっちにロクなモンがねえからに決まってんだろうがこのバカが。まあ、こっちも大した事なかったけどな」
「何だと!?」
「あっちが、数さえ揃えりゃいいってのは民への配慮だとまあ納得してやろう。だがこっちはどうだ?王宮付きでこのザマか?専門書がねえな。注釈付ける必要のない所にアスタリスクがついてるぜ。字がデカ過ぎるとか思わなかったか?紙なんざ薄くていいじゃねえか」
「貴様!」
ナルサスが腰に手を掛ける。白い手袋がうっすらと赤く見えるのは、魔力を剣に移している予備動作。だがそれにもシェイドはひるまず、逆に、ナルサスと同じ右手を前に差し出す。シェイドの手袋はナルサスのものとは逆に―――青白く光っている。その時間は僅か、一秒の差。
「やめときな。悪いけどその気になりゃてめェ」
ふ、と目が、異常な程に釣り上がる。
「すぐに炭になれるぜ」
こんな蔵書なら、ま、消し炭になっても惜しくはないか?
シェイドが牙を見せて揶揄する。ナルサスは思わず一歩引いた。シェイドがてのひらに宿す青い熱がどれほどのものか知ってしまっているからだった。
シェイドは、通常煩雑な動きを見せる。魔力も一般兵として、まあまあある程度である。だが、騎士昇進試験の時―――シェイドがはじめて、王宮域に入った時―――必ず行なわれる『魔力を最大限に引き上げて炎を作れ』という実技で、シェイドは途中『中止』を言い渡された。右てのひらの上に炎を作る前だった。試験室の硝子は綺麗に砕け、木造りの調度品は自然発火を起こした。それが翼の形が明らかにに獣のもので、血脈がはっきりしていないのに、シェイドを採用せざるを得なくなった所以である。
その場に居合わせたナルサスは、正直、恐怖を抱いた。
有り得るのならきっとこれは、6枚羽根のありかただ。
そう思ってしまった。
他氏排斥を旨とする貴族制度の中ででさえ、振り落とす事の不可能な能力を見せ付けられたのだ。あまつさえシェイドは、頭が良かった。感情から来る言動になどは見向きもしないくらいに。
はじめに抱いた恐怖も。不可解なまでに強い魔力も。魔力から編み出される見たことのない色の炎も。そして、悪魔のものとも思える冷静な頭脳も。全てが、ナルサスにとって屈辱で、故にシェイドを毛嫌いするしか方法がなかったのだ。
煩雑な足音が扉の外に消えるのを、ナルサスはただ黙って迎えるしかなかった。
「では、知とはどこにあるのだ」
ナルサスにとってはそこは知の全てであったのだ。
呟いたナルサスに、声が返る。耳はいい。そう言った。顔を上げれば、扉すぐ側に黒い影が立ったままだ。
「テメエで探せ」
瞳には侮蔑。
その色は―――赤かった。





蔵書量が全国一というのは、国家間を前提とした比較である。
国家よりも、個人の方が秀でているという事が、この世界にはあった。
一人は東に住む老龍。
もう一人は西の白狐。
世界の知はおおよそ、この二人に司られている。いわんや、知を集めた書、である。
シェイドは、だから、その片鱗を求めて書を取り、結果の憐れに絶望した。
では、それでも書を読んでいたのは何故だと、別の場所別の者に聞かれてシェイドはこう答えた。
俺は、バカだから。






セツナとライセンの私邸には、きっと恐ろしいほどの本があるんだろうなと。
個人著だけではなくて、共著もあるとの大予想。
後にシェイドがそれを発見して、大爆笑。
読ませてやって、やっと静かになると。
…シェイドの『利口かバカか』の判断基準って、セツナなんだと思います。
その割、コラを頭良いと思ってるとか。
バカだから勉強しなくちゃー。って。