管巻きスネール




構造欠陥的猫マンション・・・・今は異空にいるポヨタくんとチラベ様


伊丹十三さんと味の素

数日まえ、自然薯・じねんじょ・がテレビに映ったとき
すり下ろすと、茶色くて、異常にねばつく画像みながら
家人が、「伊丹さんにいただいたこと、あったねー」と言った。
はて、そんなことがあっただろうか、記憶の奥にうっすらとそんな風景がある。
ぼんやりした記憶では、吉良上野介の役を
伊丹さんがやっていた年に、お歳暮として自然薯をいただいたような気がする。
七十年代後半に、ソノラマで描いた「アタゴオル物語」。
伊丹さんは、気にいったらしく、年賀状などいただき、
彼が編集長になった「モノンクル」という濃い雑誌に、私は漫画の依頼をもらった。
そして、そのころ頂いた年賀状のなかで、
「味の素のCMに、ヒデヨシを使いたい、と提案したが
却下された。残念なり」というものがあった。
当時伊丹さんは味の素のCMやっていたのだが
出演するCMは 自分のアイディアで作っていたのだから、
もし許可が通れば
いったい、どんなものが出来たのだろうか。


藤田継治と日本画壇

美術は子供の時から好きだった。高校時代、イラストレーター・ブームが起こり
伊坂芳太朗氏の絵にシビレた。その伊坂氏が尊敬する画家が
「藤田継治」だと知った時、いったい誰なんだろうと私は思った。
この方の存在は、学校で習う美術の教科書にもなく
日本美術の洋画家画集シリーズにも無い。
日本人の画家でただ一人、ピカソやモジリアニの時代にフランスで成功したのに、
画集がまったく無いのだ。
やかて、藤田の絵をナニカの雑誌で見て、すげえ と好きになった。
光っちゃんの友だちの加藤さんが「藤田の展覧会のカタログ」を持っていたのを借り
それをコピーして、それがやがて「青猫島」の猫や「ヨネザアド物語」の源三郎の顔になった。
しかし、なんでこんなに凄い画家の画集が、日本に無いのだ。
やがて、それは「藤田の遺族が、藤田の意思として」、
日本では画集を出させないのだ、と知る。
それから調べていくうち、「戦争画を描いた美術家」として
戦後に、藤田だけが取り調べられる という形になっていたことに原因があり
当時、他の日本人画家も描いていたのに、その連中が
みんな藤田に罪を押し付けるような動きをしたことに対しての
藤田の怒りから来ていることを知る。
藤田さんの憤慨の理由は、日本美術画檀の者たちだけ、ではなく
日本のマスコミの、手のひらを変えす態度にもあっただろうが
とにかく、彼の怒りは、日本で画集を出さない という形で押し通した。
その結果、学校の美術の教科書に載らず、私は知らない状態になったのだった。
(長い歳月の末、十年ほど前、藤田の奥さんが、やっと画集出版の許可をしてくれたが)
だが、こうした「藤田という存在の消滅」は、藤田の意思からだけだったのだろうか。
そして、段々気がついたのだ。
私は、日本人の洋画家の絵で、好きなものはほとんどない。
だがこれらの絵は、日本の美術界ではゴロゴロとノサバッテいて、
こうした画家たちが、本当にパリで成功した藤田に対しての酷い嫉妬や羨望の末、
美術教科書のなかに、一言も彼の存在を載せない、
という形にしているのではないだろうか。
今の教科書がどんなものか見たことはないが、私は声を大にして言いたい。
黒田清輝なんかより、はるかに大きく、藤田の絵を載せるべきだ。

二月十四日


ヒデヨシの声

数年前、私の漫画アタゴオルの世界がCGアニメ化された。
できあがったものを見たとき、ナルホドと感心した部分もあり
、ココは違うなと思う箇所もあったが、これは問題だと思ったものがあった。
それは、ヒデヨシの声。どうも私のなかにあるアイツの声と違うのだ
。なにしろ、アニメの声を聞いていると「嫌な感じ」がする。
意地悪そうだし、強引な声だ。でも私のイメージでは、このような声ではない。
声というものは不思議なもので、しかも重要なものなのだ。
そこで浮かぶのは、あの「フーテンの寅」の寅さん。あの人の声こそ一種のヒント。
もし寅があの声でなかったら、印象はずいぶん変わる。
自己中心のあの男が、声もガラガラの強引な声だつたら、観客たちは段々腹が立ってしまうだろう。
ところが渥美清さんの、あの軽やかな声によって、一種の「ゆるさ」を感じてしまう。
そういう意味でヒデヨシは、強引な声でもないし横暴さの声でもない。
もっと軽やかで、どこか馬鹿そうで、あどけなさと明るさのある声、
「まだ誰も聞いたことのないような」不思議な声なのさー。

十二年一月


「銀河鉄道の夜」における猫騒動

A 八三年五月、花巻の宮沢家に行き、賢治の弟・宮沢清六氏にお会いして
猫での漫画化を説明。
清六さんは「ほう、猫ですか」といい
「いそいで描いてはイケマセン。時間をかけて、ゆっくり描いてください」と許可をいただき
沢山の賢治研究本をくれたのです。

B 九月に本が発売されると、清六さんは喜ばれ、沢山の本を
賢治研究者に送った。ところが賢治研究家のなかに
「なんで、猫で描いたのだ」と怒る方々が出て
それらの人から、清六さんに「何故、こんな漫画を許可したのか」と抗議があった。

C十一月に、グループタックが、猫版銀河を見て これならアニメ化できると決め
漫画編集部に連絡してくる。

Dアニメ化の許可をもらいに、タックの人が花巻に行くと、清六さんは
「猫でのアニメ化は、許可できない。それは賢治研究者のなかに
反対しているひとがいるからです。どうしてもというのなら その人たちを説得してください」
となった。

E こうして、アニメ化の進行は、説得行動と製作行動が同時に起こるなか
私は、描きたかった「銀河鉄道の夜」の初期形を漫画化することが、編集部より許可された。

F そこで再び、花巻に行って、しかも猫のアニメ化でもめている中、
「今度は、初期形を猫で描きたい」と言うと、
清六さんは、許可してくれたのです。

G、ですから、「賢治作品を猫で漫画に描くことに」、清六さんは
一度も反対などしていない。

9、猫でのアニメ化に反対したのは、賢治研究家の人たちの一部なのです。
そしてもちろん、そういう反対意見もまた、賢治文学への真摯な気持ちの現れなのです。

こうしたことの経緯は、「イーハトーブ乱入記」ちくま書房に書きました。
さて、なんで今更ここに書いたかつーと
「グスコーブドリの伝記」の猫版アニメ映画が、来年夏に公開される予定なので
誤まった記事のでないようにと思います。

十二月八日・二千十一。


ごろにゃん句集

鈴音の波紋ひろがる瞼かな    一月二十九日  鈴尾・死去

諦めの顔で育てる地獄華
庭に射すオレンジ針の笑顔かな


掃く道の後先に降る落ち葉かな

風やすむ空き家になりし虫の籠


蜻蛉スタッカートの飛行旋律


いつの間に自ら嵌めた首輪かな

外輪の首輪外せば放物の拳静かに微笑み開く
十八の夢のあやつり芽吹く秋

蜻蛉より薄に乗って揺れる心よ
干からびた満月の汁爪の中

指踊り溶けていくのか葡萄粒

無残やな巨木の腹を紙の凡

漕ぎ出せば宿によこたう銚子丸

胸底に・あらびで消えね焚き火あり・誰がどの手で何くべる

出社する流れ中の子を眺め父親の坂下りていく朝

壷湯入り吐息とともに抜けていく意地

身を讃え落ちていく間の蝉時雨

四つの茶碗に御飯が盛られるシアワセ

闇の背に言霊供え 一巡り・・・・・・西馬音内盆踊りの日

脚のばし 虫の心に擬態する

人ひとり殺しても死刑にならぬこの国のどの街にもある愛という店

粟粒を湖面に数え嘆き釣り

涼風や月の光のかけぶとん

言葉無き短冊ゆれる雲の峰

蒸し暑き背中に刺さる指鉄砲

隠遁の橋の高みで鯨待つ・・・・・六月・北斎

メモメモ・・・無断転用をゆるせ・・・・

理科大近くの石上大明神のことじゃろか?
それとも利根運河大師の風見さんちの石神様のことじゃろか?
あるいは福田小の近くの浄法寺のことじゃろか?
大きさだったら理科大の近くのことかなあ?



大沢スキー場冬の行軍

あれは、中三の冬、友達と三人で汽車に乗って大沢スキー場に
いったが、午前中にスベリまくり、飽きてきて帰ろうとするが
次の汽車まで、二時間くらいある。
そこで、スキーで次の駅まで行こうと、言い出して
関根駅に向かって、普通の道を滑り出した。
大沢より関根は下にあるから、下り坂が続くと思ったら
甘い。しかも、除雪されていて、道が露呈しているとこもあり
スイスイの降りるはずが、困難。挙句に雨が降りだした。
そうして、関根駅が近づいたとき なんと、次の汽車がやってきて行ってしまった。
結局 駅についても次の汽車まで、一時間以上も待たされ
米沢駅につくと、暗くなっていて、友達の家族は
心配して迎えに来ていた。

「無責任の装置」

気象庁の地震火山予知セクションの担当が
東日本震災のさい、直後に
予測される津波の高さを「三メートルから五メートル」と発表したことを
ウダウダと 謝罪するでもなく、言い訳めいた物言いしていた。
その顔が、あの東電の記者会見に出てくる人たちの表情と同じ。
とても「責任感」のある顔ではない。
これは、こうした組織が作り出した「私の責任では無い」という
独特の 責任感の喪失したモノタチの意識の現われなのだろう。
組織にいて、暮らし続けるということは、こうなることなのだろう。
だが、原発はもう嫌だとデモった人たちは
「電気を使っているあんたも無罪じゃないんだよ」とか
原発反対なら、代替を出してみな」という言い分に対し
ぜんぜん、ビビルことはないのだ。
みんな同じ責任がある、のではなく、シッカリと
一部の本当の責任者をあぶり出し、「法律を新しく作っても」
莫大な営利をむさぼった人の資産は、
福島の被災者に支払わなければならない。
責任者とは誰か、組織とはどう責任を取るのか。
日本人の 村意識構造は、もはや放置されてイイ時ではい。
自分達の村の正体に、手をつっこむ時期が来たこと
ソレを今、あの原子力という怪物が 教えているのだ。


「想定外」
3・11の地震と津波で、いろんな人が
「想定外」と言う。
だが、この言葉は、「責任逃れ」という意味でもある。
学者が、これを言ったりしたら それは
「私の想像は、その程度のもの」だったということであり
学者としては、失格だ。
涼しい顔して「想定外」と言う学者や責任者を
随分見たが、平気で言うこの人たちは、
恥知らずであり、学者はその職を降りるべきだし
責任者は、「無責任者」と言っているのだ。


ほろぐ・・・米沢弁・・・
露呈する様。「馬鹿ほろぐ」
テレビなどで、しばしば見受けられるチョッカイ蔓人間に対し
大抵は、否定的に使う。「バガ・ほろいでんなず」


 夕食のあと、満腹感が満たされて、茶の間の長椅子にゴロンと横になり、たいして興味もないテレビ番組を見ていると眠くなる。この眠気の甘味ななる快楽は、実に気持ちがイイ。満腹感とともに、体内では消化作業が始まるのか、脳内で眠気が起こるのは、多分生理的なものなのだ。ああ、眠い。気持ちイイと思いながら横になっていたら、「こんな心地良さ、昔何度も味わったなあ」という記憶がチランと湧いてきた。はて、どこでだったろう。「あっ、そうだ」。それは、中学校や高校時代の、昼飯食ったあとの五時間目。午後の授業のときだ。季節的に日差しのやさしい時期なんぞの、後ろの席でしかも窓辺なんかに坐っていると、それはそれは睡魔がモモモと忍び込んでくるのでした。そうなのだ「午後の授業」なのだ。すると突然、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の冒頭の言葉が浮かんできた。

「「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだといわれたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか」。先生は、国場にに吊るした大きな黒い星座図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問をかけました。」

 「午後の授業」と名づけた部分の、始まりのシーンなのだが、ジョバンニは手を開けようとして急いでやめてしまう。その理由が「このごろジョバンニは毎日教室でもねむく、本を読むひまも読む本もないので、なんだかどんなこともよくわからないという気持ちがする」とある。毎日ねむい原因は、彼が朝は新聞配達、夕方は印刷所で働くという生活で疲れているせいなのだが、それにしても「授業中、眠い」という時間帯としては、午後の授業くらい眠いのはないわけで、実際に賢治が花巻農学校の教師をやっていた時代にも、「午後の授業」で居眠りしている生徒たちを沢山見たのではないだろうか。そうした眠る生徒たちを見てきた教師ならではの、「眠る生徒ジョバンニ」という姿が浮かんだのではないだろうか。名作には、名作ならではの冒頭のシーンがある。夏目漱石の「我輩は猫である」などは、中を読んでない人でも知っているほとの始まりの部分。そういう意味で、賢治は「銀河鉄道の夜」の冒頭部分を、最初書いたときの「ケンタウル祭の夜」の冒頭シーンのみごとさを抱えつつも、最終的に「学校の授業シーン」へと変更したのだ。モンワリと眠気が漂う長椅子に横になりながら、「午後の授業は、確かに眠い」と、ジョバンニ気分になっていたのでした。


やえぐらさっと・ぼいらさっと

米沢弁では、「急に、突然」という意味で、「ぼえらさっと」」と言う。
「いやあ、あの人、ぼいらさっと、来てよお」みたいに使う。
「やえぐらさっと」という言葉もある。
というわけで、「ランド・サット」の言葉を聞いて、なんだか、親しみが湧いたのだ。


暑かった記憶
米沢の夏は、蒸し暑い。昔はクーラーがなかったなら
夏の夜、寝たくても、ムシムシ寝られない。
あれは、中学一年のとき、あんまり暑くて夜中、眠れず思った。
「そーだ、自転車に乗って、走れば、風が切れて涼しいはずだ」
そこで、浴衣をきた私は、チャリで走り出した。
おお、涼しいーーー。これだよこれ。
しばらくは、涼しかったが、だんだん体が熱くなって
汗ビッと吹いてきた。うう 暑い、じっとしているほうが、マシだった。


推薦図書
「あの時、バスは、止まっていた」高知白バイ衝突死の闇
山下洋平著 ソフトバン・クリエイティブ刊

この本に描かれていることを読んで、
世のドライバーは、安心して道路を走れるだろうか。
もしも、貴方が大型道路を右折しようとして道路に停止しているところに、
高速の白バイが衝突してきたら 
「貴方は、停止していたんじゃなく、急に路上に飛びだした」と
認めなくてはいけない。そうしないと、貴方は、刑務所に送られるのだ。

KSB瀬戸内放送の事件画像

 高知白バイ衝突死D
http://www.ksb.co.jp/newsweb/meta/sr071030.asx 
 高知白バイ衝突死C
http://www.ksb.co.jp/newsweb/meta/sr071025.asx 
高知白バイ衝突死B
 http://www.ksb.co.jp/newsweb/meta/sr071024.asx
 高知白バイ衝突死A
http://www.ksb.co.jp/newsweb/meta/sr071004.asx
高知白バイ衝突死@ 
http://www.ksb.co.jp/newsweb/meta/sr071003.asx

6番以降は下記。

http://www.ksb.co.jp/newsweb/indextable.asp?tid=4&sid=7

順をおってみていくと、
10番見ていて、ゾッと震える場面があります。
ホラー小説より、はるかに恐ろしい。
事件現場写真は、恐ろしい風景を想起させます。


強引さ

日本のサッカー界で、ストライカーが育たないのは何故だろう。
Jリーグを見ていると、「なんで、そこで打つんだよ」と
思わせるほど、強引な奴は、ほとんど外人だ。
日本人のストライカーには、そうした強引さが ほとんど見られない。
何故だろう。 それは幼少の少年たちを指導している人たちが、
強引さを、潰してしまうからではないか。
ほんとうに、強烈なストライカーが育つためには
コーチたちの発想のなかから 変えなくてはならない。
それは、日本という国が抱えている 国家的な深い意識を
直視することに、つながる。


2009 11


ゲルマニア

ヒットラーが、計画したドイツ帝国の首都ゲルマニア。
その規模のデカサは、尋常でない。
エッフェル塔がすっぽりと入る巨大なドーム。
そのなかに、十八万の人を収容し、それらの人の熱気が
ドーム内を上昇すれば、天井で冷やされて
雨になるのでは、言われた、など聞くと
あまりの巨大さに、アングリとしてしまう。
そして、四十万人が入るスタジアム・・・、
なんとも凄まじい発想だ。


オスの三毛猫

南極観測の昭和基地に、犬のタロとジロが居たとき
もう一匹、動物が居たというのをテレビでやっていた。
「それは、猫で、名前は、タケシ」と流れた瞬間
馬鹿だなあ。三毛猫にタケシなんて名前つけてサ
と、オレは思った。三毛猫のほとんどが、メスなのだ。
稀に、オスは生まれるらしいが、まず居ない。
すると、テレビで「この猫は、オスの三毛猫で、
船乗りにとっては、運がイイ猫と、されているため
わざわざ連れて行った」などと言ってる。
ほほう、オスの三毛猫。見てみたいものだ。
もしも、そうした猫が居たら、ペットショップ風に言うと
相当に、高価な猫になるらしい。


こき下ろされて

高校二年生の時だとおもう。
クラスの小林と誰かが我が家に遊びに来た。
ワタシの部屋は、二階で、六畳と八畳間の堺のフスマを
取り払っての、ガラーンとした十四畳に、ひとりで居たのだ。が・・
この広さが嫌いだつたワタシは、
机と本棚とステレオで、敷きっ放しの布団を囲み、そうやって出来た狭い四角の空間の周りを
天上から画鋲や釘で押さえてカーテンで囲んで、別空間のようにしていた。
ガラーンとした十四条の途中に、カーテンの垂れ下がった場所がある状態。
それを見て、ナニヤッテンダ、ナニカンガエテんだオマエと
こきおろし、せせら笑ったのは、小林孝二だ。もうひとりは、誰だつたか忘れたが
松山だったかな、そやつはコキオロシタリしなかった。
それからしばらくして、小林の下宿に行ったら
ヤツの部屋の中に、天上からカーテンが垂れ下がり
中に、圧縮したモノタチがあふれていた。
アンナニこき下ろしていたのに・・。本人いわく。
家に帰ったら、意外と感動して、やってみたくなっただとお。


銭湯に行こう

どこの家にも風呂のある時代、銭湯の生きる道は
益々細くなっていく。
僕が、銭湯へ行っていたのは、小石川時代。
東京ドームの北側にある町の裏に住んでいいたころ。
近くの銭湯にかよっていた。十年前くらいに
そのヘンをうろついたとき、その風呂屋はまだやっていて
嬉しくて、さっそくお風呂に入ったのだった。
初音湯、という名前だったろうか。
最近もこうした銭湯は、バタバタと店じまいしている。
石油の高騰が拍車をかけて、銭湯の灯を消している。
まだ、あの風呂屋さんやっているかなあと、検索してみたら
もう、その場所への点灯マークが消えていた。
ああ。だが、そこの近くにもう一個、点灯のマークが残っていた。
ほう、ここの風呂も行ったことがある・・・。
早いとこ、もう一度、あの風呂に入りに行こう。


ユーチューブは偉大なり

http://jp.youtube.com/watch?v=Enlt2Qgj3s4

「なかなか」by 三上寛+ウシャコダ 
マディ・ウオーターズの「マニッシュ・ボーイ」のフレーズで始まる
「吉野家の牛丼は、なかなかに、うまい」というカッコイイ歌詞
バックは、菅野賢二が在籍中のウシャコダです。


成人式の日

二十歳になった時、都内の小石川に住んでいた。
都から、成人式の招待が来ていたが行かなかった。
誰が祝うわけでもないし、何があるわけでも
なかったが、なにやら自分なりに儀式めいたことをしようと
初めて近所のパチンコ屋に入った。
そして百円で玉を買い、手打ちで打った。
ビギナーズラック、成人式の日、そんな日なのだから
少しは当たるかと思ったら、せいぜい二回くらい入って
あっというまに、玉はなくなった。
酒の飲まない、タバコも吸わない、なんにもないけれど
牛乳箱の本棚のどこかには、なにかが、詰まっていた。


ヤング・セブン・ツー・オー

高校時代、平日の朝の七時二十分から流れるテレビ音楽番組「ヤング七・二〇」。
ここで、三年生のワタクシは、腰が抜けるような音楽を聴いた。
スタジオ・ライブ録画なのだが、「明日なき世界」・「ロールオーバー・クラノスケ」
そして「アポロの歌」。歌ったのはジャックスと高石友也、あるいは
高田渡と岩井宏。これらのテイクを、私はその日テレビから録音していた。
七時半もとっくにすぎて、さすがに、マツノばあちゃんに
「博、学校遅れるぞ」と言われても、これは遅刻しても見るべきものだと
遅刻して見ていた。この時録音されたカセットは、何年もボロボロになるまで聞いてた。
ああ、あれを聞いてみたいなあと検索していると、
なんと、そのテイクを、この日本のどこかで録っていた人がいた。

http://www.good-weather-studio.com/720/young720.html

さあ、諸君、是非「明日なき世界」を聞いてくれたまえ。
二番を歌う早川義夫の声、四十年経つのに、しびれます。
こんな音楽が、朝のテレビで流れた時代だったのだ

そして渡さんの歌、これはまさに、アポロが月着陸成功したと
日本中が喜んでいる時期に、こんな風に、涼しく歌ったのだ。


元日の朝

子供のころ、お風呂はマキを燃やして沸かしてた。
今日のように、スイッチ押すだけで沸くのではなく
せっせとマキをくべて沸かしていたから、風呂は貴重なものでもあった。
というわけで、朝風呂などというものは、会津磐梯山の
オハラ庄助さんの世界のごとく、贅沢なものだったが
我が家では、年に一度、元日の朝に、沸かすのだった。
実につつましい贅沢、そして、つつましい儀式なのだが
なんとも懐かしい。


米沢都市伝説・そのいち「テイシャバ・ガンジ」

私が小学生の低学年のころ、家に来たので
おにぎりをあげたような記憶が、ボンヤリある。
「ガンチャーン」と呼ぶと、へらへらと笑っていた
あんまり勉強すると、ああなるんだと誰かに言われた。
賢治の資料本のなかに、花巻にも似た人がいたようだ


「だから猫はやめられない」Bクリーバン著 犬養智子訳 晶文社刊

この本は、一九七七年十二月に初版が出ている。
Bクリーバンとは、虎猫の猫のイラストを描いている人で
彼のイラストの猫本。この最後のところに
犬養さんと小野耕世氏による対談があるのだが、
そこに、「青猫島コスモス紀」のイラストとともに、ヒデヨシのことが
語られている。記憶によれば、雑誌ではなく
こうした書籍のなかで、ヒデヨシを取り上げてくれた最初の本だと思う。
九十年にクリーバン氏は亡くなったのだが、もしもご存命ならば
ぬああんとしても、四年後に出た「アタゴオル詩画集」を送って
アジアにヒデヨシ在り、とお伝えしたかった。
なんでかっつーと、アタゴオルの「パナ豆」の話。
こんとき、ヒデヨシは、飛ぼうとして、くちばしだけつけるシーンがある。
これを描いて、ずいぶんたってから、
クリーバン氏の絵で、やっぱり、同じように猫にくちばしつけている絵があった。
素晴らしい。嬉しい。センスがどこかで、交差しているのだ。
ねっ、クリーバン・キャットなんだよ。
クリバン、なんかじゃないのよ。


店で売っている地図なんか、捨てるんだ
魂の地図を思い出せ


ヘルプ・・・四人はアイドル

ビートルズの二作目の映画「ヘルプ」。これがDVDで
売られるとかで、懐かしい記憶が湧いてきた。
この映画は、中学生の時公開された。
米沢の映画館に来るのは、すごい時間がかかるので
すでに来ている山形の映画館まで見に行った。
学校は、この手の映画を見るのは禁止だったが
友だちと内緒で、二人か三人かで、列車に乗って山形まで見に行った。
ビートルズが動いているだけで、不思議な感動があった。
リンゴの指輪を、インドの宗教団体が奪いに来る話だが
ビートルズは録音したりしているシーンがあり、どこか
夢のような、どこかヘンに現実のような、不思議なものだったし
雪国生まれの私にとつて、ビートルズがスキー、へたくそ
というのもヘンな気持ちになったりした。
この映画を見た後、学校で、叔母さん先生の前で
内緒で行ったのをヘラヘラと、得意になって話しだした馬鹿者には参った。
隠し事の出来ない俺以上に、口の軽いヤツだつた。


ラジオから聞えた

テレビが無い時代、我が家の茶箪笥の上にラジオがあった。
相撲放送や天気予報が耳に残るが、友ノ助爺さんの趣味で
時々「落語」が流れ、小学生の低学年のあたりの私は、けっこう面白く聞いていた。
当然、人情話はツマラナク、与太郎モノが好きだった。
このラジオから、小学六年生のある日、突然、ジャーン、という激音とともに
「いすびな・はーでーいず・ない」という、熱音が聞え
「なっ、なんだ、これはあ」とシビレたのでした。


シン・ブンチンさん

茶の間のテーブルで新聞を見ていると、
広げた新聞に、ドスっと坐るのが、チラベだ。
そして動かない。しょうがなくて残った部分を読んで
チラベに新聞紙を巻きつけて
「読めないよー。どけよー」と言っても、動かない。
そして前足をしっかり体にしまった姿は
中国人が両手を袖にしまった姿のよう。
「新聞」に乗って、まるで肉製の「文鎮」のように動かない彼は最近
「シン・ブンチン」という中国名をもらったのです。



使わなかった「あとがき」

原画展に展示するラフ・ノートを整理していたら
ノートのなかから、一枚の切れ端が落ちてきた。
そこには、「アタゴオル・スケッチ」用のあとがきとして
書こうとして、没にした文章だった。

どりいむ・どりいむ・どりいむ・
いつまでも、白いレコードが回っている。
部屋のコップに水を入れてから、
七年間の夜を僕は何度も
がりがりとペンを動かしました。
今まで何冊かの僕の本が出ましたが
一番作りたかった本は
あの鈍行列車の中に坐っていたときの僕が見れば
たぶん、この一冊だったのです。
世界中のコップのいくつかは
もうとっくに水気を失くしてはいますが
オレの手首をひねれば、
いつだって、水は流れるのです。
どりいむ・どりいむ・どりいむ
誰かが、あのレコードを止めても
次の夜には、また
歌いはじめるのです。


シム・シティ

テレビゲームというものを、最近はまったくやらなくなったが
昔、シムシティーというゲームに はまったことがあった。
野原に、鉄道をひき、駅を作り、そこに家を建て並べる。
するとまるで、駅という草の周りに、いろんな植物が生えだすみたいに
建物たちはだんだん大きくなりビルの街に変化していくのだ。
そうやって駅が出来ると、あとは膨らんでいくという不思議さが、今日、流山おおたかの森駅や
柏の葉キャンパス駅などにいったら、よみがえって来て
「まるで、シムシティ」みたいなもんだなと思った。
都市計画者や、建築家たちのひいた路線や建物配置、、
その人工的すぎる形のなかに、人々が集まってくる。だが、あまりに
計画的な形っぽくて、そのなかに取り込まれていく姿が、蟻のように思える。

ところでシムシティというゲーム。都市が大きくなっていくと
建物が病気のように、点々模様が出て、「スラム化」するのだった。
このスラム化が起こると、人口が減っていくのだが
このゲームは「人口が増える」のを競うスタイルなので、スラムを
壊さなくてはならなくなる。そこでドカンドカン破壊しながら、なんか
このようなやり方は変ではないか、と胸がチクチクすると思っていたのだ。
そしてあるとき、このゲームの話をブルース・ハーモニカ吹きの石川二三夫くんとしていたら、
「あのゲームって、最低だよな、スラム町を破壊するなんて。」と言った後、こう言ったのだ。
「スラムから、ブルースは生まれるんだぜ。」
うーむ、ブルースマンの視線、その角度を感じました。


めろんめろん

「めろん・めろん」と言っても、メロンが二個あるわけではない。
これは、れっきとした米沢弁である。
子供のころ、松川にいくと、川の流れのなかに
清朝りも深いところがあり、そこを泳ぐときは
気をつけろよとバーチャンに言われていた。
完全に体が沈んでしまうほど深いところのことを
「めろんめろん」と言うのだ。
松川のモク焼き場のあたりから、川に降りていったあたりに
その「めろんめろん」の場所があるのだが、深いその川底には
「粘土」の層があって、足にニチュウッとベタついてくる粘土の感じが
なんだか好きだった。この粘土の場所で潜って
石拾いしたりして遊んだのだった。


井上コウセイ選手

柔道の強化の一環として、自衛隊の訓練施設かなにかで
高いところに上る訓練や、高所から飛び降りる訓練をしていた。
そこに映った井上コウセイ選手は、立派な、高所恐怖症だった。
私とほとんど同じような、酷い状態で、まったく上に登れない。
偉いぞ、そーだ、君は正しい。最後に高いところからジャンプできずに
後ろから蹴られて飛び降りていたが、
「こんな訓練が、柔道の上達に何の関係があるのか」と本人は
不満そうであり、また、こんなことを本気でやろーとする日本柔道は
科学的ではないなあ。


幻想の糞餓鬼

庭の草むしりをしている。そして箒でせっせと
砂や土を掃いていると、昔、米沢の家のことを思い出す。
我が家の数軒先に、庭を大切にしている爺さんがいた。
せっせと庭を掃き、花を植えていた。私はガキだから
そうした他人の家の庭に、侵入するのに
なんの抵抗もなく、むしろ、興味深く、入ろうとするのだが
その爺さんは、猫でも追っ払うように、こうしたガキの進入を
許さなかった。それゆえ、庭は、撫でたように綺麗で
そこに入ってみたくなるのだった。
そして、ある日、私は、爺さんのいないのをいいことに
中に入り、たいせつな花を、むしってやった・・・というのは
幻想なのか、ただの当時の願望なのか、それとも、確かに実行した事実なのか
今となっては、さーっぱり、思い出せないのだ。


おっぱいの形

米沢のお城の周りには、お堀があり
二箇所に橋がかかっている。南側の橋は
たいこ橋。この橋の欄干に、おっぱいのような形が
ついていた。子供のころ、橋を渡るとき
そのおっぱいの形をなでると、どうも変な感じがした。
今思うに、それは「懐かしさ」なのだ。
おっぱいの形に似ていることに、どこかで気づきつつも
「懐かしい」と感じることに、変な気がしていたのだ。
何が懐かしいのか。それは母親の乳房を
触っていた感覚が、まだ残っているからだったのだろう。
そんなことを、数日前、ぼんやり思った。


ほくさん原

半年ほど前のニュースだったろうか。
江戸時代のキリシタン弾圧のさい、
処刑された人の一番多い藩が、故郷上杉藩の
米沢だったとあった。五十人前後のように記憶しているが
驚いたのは、全国での合計が二百人くらいという数字で
「なんか、少ないなあ」という感じだった。
このキリシタンの処刑の話は、ワタシが
子供のころから知っていた。つーか、中学校・四中への
登校の道、田んぼの裏を歩いていくと
ポツンと、その処刑地跡があり、そこに十字架が
立っていて、ホクサン原と呼ばれていた。下校の時
人気もない場所に立っていると、時々妙に
怖さが湧いてきて、寒気がしてくるものだった。
今では宅地化が進み、宅地に囲まれてしまい、当時の
町外れの処刑場の気配は無くなった。
それにしても、なにゆえ、上杉藩には
そんなに、強い信仰の人たちが居たのだろう。
宣教師も、当然居たのだろうが、その処刑者の多さ
謎であります。


メモ

もうちょっ島。たくさんの島を描いた図。
人参を奪い合う。


泥酔幻想

雪国でデロデロに酔って、吹雪になっても
寒いけど酔っているからよくワカラン状態のなか
女性が自分のマフラーを酔っ払いに巻いてくれた。
そしたらもうヒトカタもマフラーを巻いてくれた。
こうして二本のマフラー巻かれた瞬間
カムイ伝の正助が、江戸送りになる風景を
思い出した・・・と、家人に話したら
ゲラゲラ笑われたのでござる。


粘着質

粘着質には、二種類ある。
過去に向かってか、未来へ向かってか。


すっとこどっこい

ホームセンターの買い物のあと
自分の車と同じ色の車に近づき
普段乗らない私でも、こんなところにシールなんか
張ってる車、違うんでないかいと言ってる脇で
キーの電子スイッチを、車に向けて押している人・・・。
よく毎日無事に、自分の家に帰還できるものです。


霧にむせぶ夜

僕が初めて描いた漫画。その題名を考えたとき
場面は、霧でいっぱいのラスト。そしてこの題名が浮かんだ。
もちろん、歌謡曲の歌から来ている。
作品の内容からすれば、完全にいい加減な題。
今考えると、すでに、私の性格が出ている。
シリアスな場面になると、黒い冗談をいいたくなるという。
それにしても、この曲の歌詞、なかなかシビレマス。
今日の新聞に、この曲を歌っていた歌手
黒木憲という方の死去の知らせが載っていた。
これも、なにかの御縁、合掌。


アインシュタインの仕事部屋

机や自分の部屋が、散らかっていると 子供のころは、怒られた。
勉強する机や、本棚は、キチンとしておけと
言われ、学校でも先生は、キチンと整理しましょうと言う。
頭のイイ人は、机もキチンとしている。
そんな風に言われていたある日、アインシュタインの仕事部屋の写真を見た。
乱雑。本棚メチャクチャ。
頭がいいどころではない天才=乱雑。しかもその乱雑が半端じゃない。
この瞬間、先生や親の言ってることは、変だぜ、と思ったのだ。

「おかたづけ」の歌。
「おかたづけー、おかたづけー、さーさー、みなさん、おかたづけー」
この歌、我が娘は「さかさ言葉」というか「自分語」が得意というか
「ただいま」は「たまいや」、「おかたづけ」は「おかたいてー」だった。
というわけで、「おかたいてー、おっかたいてー」と、我が家では歌っていたため
いまだに、そのフレーズがわいてくるのです。


記憶

昨日見たテレビ。
アメリカ。三歳児の「ジェームズ君」が、焼けて落ちる夢を繰り返し見る。
飛行機に異常に興味を持つ。飛行機の絵を描き「ジェームズ・3」と「3」の文字を書く。
兵隊人形三体に、それぞれ名前をつける。
聞いたことのない言葉をふたつ。そして親の見ていた本の
硫黄島戦記の、小笠原父島の地図見て、「僕はここで死んだのだ」と言う。
心配になった親が調べると、意味不明の言葉は、硫黄島攻撃空母の名前と、戦闘機の名前。
人形三体の名前は、死んだ兵士の名前。
そして、子供は、父島の攻撃で一人だけ撃墜されたて死んだ兵士の名前だった。
その姉が生きているので、子供が会うと、子供は姉の愛称で呼ぶ。
死んだ兵士の父の名もジェームス゛。撃墜死者もジェームズ。だからその子は「ジェームズ3」
そして撃墜されて沈んだ父島の湾で、子供が船の中で、涙を流す場面。

前世の誰かの記憶が、生まれた子供に宿る。
まるで一本の映画を見ているようだった。


コロッケの唄

コロッケが好きだ。
子供のころ、米沢では、神田コロッケ店というのがあって
そこのが好きだったが、そのあとは、「満月」という店のやつ。
高校生のころは、自転車に片手で乗りながら、ハフハフ熱いのを食べたりした。
今では、家で作って揚げるのだが、四十個くらい、いっぺんに作ってモガモガ食う。
昨日コロッケ食べながら、「そういえば、コロッケの唄ってあったよな」。

今日も、コロッケー、明日もコロッケー
これじゃ、年がら年中、コロッケコロッケー

この唄って、私の小さい時に、すでにあったから
昭和三十年あたりの唄かなあと、ネットで調べたら
大正九年の作品、とある。
凄い古い唄なのだ。そして思うのは、
賢治も、この唄を聴いていたであろう、ということだ。


不条理なる法律

運転免許の書換えの通知が来て
すっかり忘れて、書換えに行かなでいると
一年たったら、運転免許は、失効してしまう。
その、一年間、一度も通達はない。
それにしても、いくら、忘れたからといって、免許を失効させるつーのは
あまりに、非情な制度だ。
忘れてたら、せいぜい手続き遅れのぺナルティとして、罰金程度で十分だ。
断固、こつけな、法律、改正するべし。

と、数年たっても、思うのだ。


月を祭る

「月まつり」という名前は、「花まつり」の秋版の名前として三十年前
僕がつけた。だが、野田でのテントのなかで行われていったライブの
歳月のなかで、死ぬはずのない若者たちが、ずいぶん死んだ。
ミッチャン、マコヤ、タテオカ、セタ、リュウイチ君。
そして、テント解体のための最後の月まつり、万感を込めて
「月の下で」を作って歌った。

「逢えない、貴方たちが、月影で歌う夜
オレたちも眠れない、屋根の上に舟を浮かべ
光に沈む町の上を、漕ぎだして行こう」

9月17日、新宿で、谷山さんのライブに呼ばれて
この唄を歌い、サビを谷山さんのコーラスで歌っているとき
僕は、「これも、月まつり、なのだ」と思った。
何故なら、「月をまつる」ということは、
「月影にいる人たちを祭り、彼らに逢う夜でもあるからだ」


都会

山手線の電車のなか、日曜でガランとしていて
窓際に立っていた私は、かばんから、MDを出そうと
横着してへっトポンのままコードをひっぱりだしたら、本体がぬけて、床にゴンと落ち
その瞬間、電池部分のカバーと電池が床をすべって
飛んでいった。電池はすぐに見つかったが
小さな灰色のプラスチック製のカバーは、見つからない。
三人かけの椅子に、両脇六人が座っているが
チラッとこっちを見ただけで、われかんせず。
カバーさがそうと、床にひざまずき、その座っている人たちの
足の辺りを、離れたところから、見ていても、
誰も、一緒に探そうなんて人は、いない。あれっ、あれっと
しばらく探すが、人たちは知らん振りのまま。
都会だねえ。
田舎の電車なら、もうすこし人は下を見るだろう。探してくれる人だっているだろう。
カバーがなくなっては、その部分だけまた買うわけにもいかないから
こっちは、それでも、遠巻きにして、ひざついて床を見ていたら、手前の方の椅子の
奥の若い女性が自分の足元の奥から、見つけ出し、渡してくれた。
ありがとう。
それにしても、都会って、人間味の薄い、ツマランところだなあ。


プルート

冥王星が、惑星から外されることになった。
天文学者の国際会議で、九個ある惑星が
十二個に増やすという提案、そこで議論が起こり
惑星の概念から、冥王星も外れ、学者たちの投票で
九個から増えるどころか、一個減って八個になった。
それをきいて、何か 寂しい気持ちになった。
冥王星が、なにやら、可哀相な気になったのだ。でも
よくよく考えれば、冥王星と呼ばれている物体にとっては
どうでもイイことなのだ。
水色の星の生物たちが、勝手に名前をつけようが
惑星から外そうが、自分は宇宙の中で、存在しているのだから。


惑星と、呼ぶ呼ばないと 水の星



自分ノ絵ヲ描コウ

あまりにだれかの影響を受け続ける画家。
次々とスタイルが変わるが いつも
その時代の他の作家の影響を受けて、飲まれてしまっている。
考えさせられますなあ。いくら技術があったって
自分の視線がなければ、あんなことになる。
そして、お決まりのパターンのように、幼児絵のなかに入ってしまうが
やっぱり、自分の絵は見つからない。なぜか。
いつも、外ばかり、見ているからだ。
電気を消せ。
暗闇のなかに 自分の絵が在る。


火山さま

バスケットボールの世界大会の宣伝みたいな
画像がテレビで流れた。巨大な人間が雲海よりも大きくなって
富士山みたいな火山の噴火口にジャンプして上から、
巨大なボールをブチ込む。
そこでCMは終わるのだが・・・。
甘いよなあ、あんなことしたら、大噴火起こるぞ。
この作品作った人は、火山を知らない。火山への恐怖も
尊敬もないから、あんな恐ろしい行為を発想できるのだ。
ぷんぷん。


蚊帳

カヤの新しいデザイン、などという企画を夜中のテレビがやっていた。
蚊帳か、懐かしいなあ。
夏の眠りに、昔はかかせなかった蚊帳。
蚊帳のなかで寝たことのある人って、いくつくらいの人までだろう。
昔は、クーラーが無かったから、暑い夏、窓を開けて寝ていた。
しかも網戸などなかったから、蚊はぷんぷん入ってくる。
蚊取り線香たいたたげでは、寝相の悪い子供など蚊の餌食になる。
そこで蚊帳をつるのだ。網目の蚊帳の先には四箇所に丸いワッカがついている。
これを部屋の四隅の壁や柱に、釘を打って、ひっかけるのだが
直接釘にかけるのではなく、我が家では、割り箸を折って金具の
ワッカにかかるようにするのだが、、この割り箸を紙紐で縛って釘に縛るのだ。
紙紐は、我が家が魚屋だったせいで、折り詰めを作るときくるっと縛る紐としてあった。
蚊帳をつると何ともうれしくて、出たり入ったりする。
そうしてると蚊まで入ってしまい、「博、だめだごで」とごしゃがれるわけだ。
新品の蚊帳は、色の濃い緑色をしていたが、使い古されたやつは
色も落ちて、投網のようだった。
そうか、あの感触を味わいたいなら
窓を閉め切ったクーラーの部屋でも、蚊帳つって寝てみればいいのだ。


ヒジリヤマ

アタゴオルの時計屋の弟子は、ヒジリヤマというメガネの猫。
これは高校時代の友達の名前だが、お寺の子でストーンズ好きで
墓場で ミックの真似して歌ったりしていた。
どうも、寺の子は、宗教が世間が思っているほど、宗教的な世界ではないと
早々と察知したりしているので、ストーズの音にしびれるセンスを持っていたのだ。
中学時代、ビートルス゛は不良の音楽だ、などと校内放送禁止にしていた間抜けな
日本で、一部の不良とイカレタお寺の子と、ワタシのよーな者が
世間に先駆けて、放課後に友達のステレオある奴の家に行ってシングル盤を聞いたりしていたのだが
なかでも小学六年生でビートルズ電波にやられた私は
「九千五百万人のポピュラー・リクエスト」というラジオ番組を聴いていた。
そして、そのなかで「国際電話」をかけて、アメリカの音楽誌・ビルボード誌やキャッシボックスの
今週のベスト10を外人が言うのだが、そこで一曲流れる曲を必死で聞いた。
なぜなら、アメリカで今はやっている音楽は 日本では二三ヶ月後に発売されるのだ。
必死で聞く理由は、録音の器械が無いからで、耳で判断しつつ
自分が好きになるかどうか、そしてコリャいいとみた、となると
米沢の名曲堂に行き、この曲発売されるから一枚予約、となるのだつた。
こうやって、当時アメリカで一位になった曲で、いまじゃカルトな人しかしらない
サムザシャム・アンド・ファラオーズの「赤頭巾ちゃん・気をつけて」など買っていたのだが、
こうしたトップ・ランキングに、地味な曲が出てくるようになり、中学生のガキのワタシには
ダメダこりゃと買わなかったのは、ディランだった。
さて、このランキングの存在に興味を持ったワタシは、ある日からランキングをメモしだし
そのうち、私の中で今流行っている曲のランキングを作った。
それを見ていたヒジリヤマ、自分も作り出したのだが、これがしつこい。
すっかり飽きたワタシに、「増村、ほら、これが今週の俺のランキングなんだよ」と
歌謡曲とか入っている、どーでもイイものを見せるのだ。高校生になっても
やっていたんじゃないかなあ。どうしたんだろう、あのランキング・ノート。
自分のは、印象薄いのに、変にシブトイ聖山のランキング、実家に残っているんじゃないのかな。
モノマネの芸人は、当時もいたが、ある日、ヒジリヤマが突然
玉音放送の天皇陛下のマネをした時は、さすがのワタシも驚いた。
それが変にうまいのだ。寺の子は恐ろしい。神も仏も無いと、知り尽くして育つのだから・・・。


まきこき

私は、ふたつの言葉が話せる。
それは、米沢弁と日本語。
十八歳まではなしていた米沢弁
それ以降、日常では、話さなくなったが
それでも、子供がかわいいと
「可愛い」なんて言葉では、感情がちっとも満足できない。。
「めんごいなあ」。そう言ったとき、気持ちがふあああと出る。
子供がある時期になって、「とーちゃんん、めんごいって何だ」と
いぶかしげに質問したっけは。
で、今日、酔っ払って、奥様と話しているとき
「「まきこき」ってよお」てな会話になったら
それって、今まで聞いたことの無い言葉だと言われた。
まきこきって何だ。
ふっふっふ。何だと思う。

「急に、ほつけなことになったもんだから
おれも、まきこきってなってよお。」

んっ、この使い方でいいのかな。
さあ、共通語に通訳してみてけろず。

失われていく言葉は、アイヌ語だけではない。
方言は、美しい
みんな、土地の匂いで、しゃべっぺず。


五度目の毘の旗

妹から、毘の旗が送られてきた。
毘の旗は、ふるさと米沢の町が上杉藩の町であり
上杉謙信公が、戦いの時に、上杉の旗としたもの。
この毘は、毘沙門天からきている。
そして毘沙門天とは、戦闘の神なのだ。
初めて、ワールドカップをアメリカに見に行った九四年。
僕は、この毘の旗を持っていき、決勝のブラジル対イタリア戦で
「ブラジル」と描いて応援した。
九八年のフランス大会でも、新しく毘の旗を送ってもらい
ブラジルの試合にもって行った。
そして、九九年のコパアメリカ・パラグアイ大会、
二千二年の日本での、ブラジル戦に、いつも持っていった。
四枚の毘の旗は、三度の優勝と、一度に苦い準優勝の現場にいた。
そして、五枚目の毘の旗。もちろん、ここに描くスペルは
「BRASIL」なのだが、ブラジル対日本戦に、
ワタシの毘は、どうするのだろう・・・。
親がブラジル人と日本人の子供たちのような
あるいは、もっとたちの悪い、苦しい選択が待っている。
憧れと、現実。大好きなブラジルの前で
ワタシは、何者かを、痛感させられるのだ。
ああ、曾お爺さんや、曾おばあさんが、ブラジル人じゃなかったかなあ。


この世で一番甘いもの

中学か高校の英語の教科書で、いまだに内容を
覚えている場面がある。それは
路上に座っている哲学者に会いにきた王の会話。
王がいろいろと尋ねるのだが、そのなかで
「この世で一番甘いものは、何か」という問いに
当時の私は「砂糖だべな」と思ったのに
哲学者の答えは「眠り」です、と来たのだ。
何、眠りだとおっとガキの私は思った。
そして、王がそやつを気に入り、何でも望みを
かなえてやるというと、「それでは
王様、目の前で立つのをやめてください、
あなたのせいで太陽の日差しが私に当たりません」
と答えるのだった。ガキの私は、さぞや
とんでもない褒美を望むと思ったのに、
そのギザッたらしさに呆れつつ、私が王なら
即刻、こいつの首をはねるだろうなあという
変な苛立ちがあった。さて、なーんでこんなこと
思い出したつーと、この話の「甘いもの」の答えになっている「眠り」。
これが、仕事を連日やってヤットコあがったあとの、
布団での眠り。なんという心地良さ。そーか
これこそ、砂糖とは異質の甘さの極みなんだなあ。
こうして、ガキのころ飛ばした首を、胴体にもどすのでした。


録音唖然

ビートルズが来日して、テレビでライブが流れたとき
我が家では、親戚のおばちゃんが持っていた
オープンリールの録音機で、テレビの前にマイクを立てて
録音した。ラインで録るなんてできない時代だったのだ。
ばあちゃんが「これがビートルズかい」と
なにやら言ったとき、私は、静かにと声を立てられず必死の形相で
抗議したものだ。あのとき、ちまたの家庭に録音機など
そうあるものではなかった。そして高校時代になつた時
ソニーがカセット・レコーダーを出した。これが欲しくて
やっとこ金を貯めて買った。上京してオープンリールの
大きな録音機を買った。それからずいぶん歳月がたって
今、パソコンにいれた曲が、名詞くらいの大きさの機械に
1千曲以上入ってしまう。
なんということだろう。かつて、三百三十円でシングル一枚を
買って聞いた曲たちが、こんな小さなものにギッシリ入ってしまう。
昔、国営放送のアニメで宇宙家族というのやっていたが
あの世界すら、描かなかった地点に、きてしまったのだなあ。


使い捨て

中古の電化製品の販売が
役所によって、禁止になるというニュース。
いったい役人というものは、
物の大切さを、なんと心得ているのだろう。
古くなったり、壊れたものを修理して
まだ使えるようにして売るという行為は
物を大切にするという気持ちの表れだろう。
捨てるべきものは、こんな規則を作ってしまう
人間の精神のなかにあるべよなあ。


空耳爺

見る気もなく、テレビを流し、見てもいなかったら
「今後の活動予定は」という質問に、女性の声が
「まず子作りをして」。何、子作りとは大胆な発言と
画面を見れば、若いミュージシャン。
ふーむ、この子結婚でもしたのか、しかし子作りとは大胆な・・
「それから、夏にツアーを」。何、子作りしてからツアーはへんだな。・・・
そーか、子作りでなく、曲作りだ。


あいむ・あ・ポーイ
川間駅前の店に行ったら、なんかビートルズの
オールマイラビンをぱくったような曲が流れていたので
誰と聞いたら、フーのベストだという。へー、じゃあアレも入ってるかと聞いたら
あった。そしてその晩フーのこの曲を聴いた。中学生以来だから、もう四十年近い昔のこと。
このシングルは、僕がもっていなかった。名前忘れたが
隣の組の男子の家で聞いた。たぶん、彼の兄が買ったものだろう。
今聞くと、当時の自分の「イライラ」が、聞こえる。
本来、ビートルズやストーンズのいろんな曲に感じていたあのイライラが
この曲で蘇る。なんとも、甘くて、それでいて
確かな、イライラ。


慢心商売
お客の来ない店もあれば、客が押しかける店もある。
毎日客が押し寄せる店で働いていると、
客は金を払うハエのように見てくる。
そして、慢心が漂いだし、商品にセットになる。


雪国にアタゴオルカレンダー
故郷にアタゴオルカレンダーを送った。
それを仕事場にはっていたら、みた人が、十二月のところを見て言ったそうだ。
「雪待ち月・・・、誰も、雪なんか、待ってねず。
そんなに、待ってんだったら、ラッセル車で雪、送ってやればいいんだ」
アタシャ、子供時代しか、故郷にいなかったからねえ。大雪と戦う
雪国の大人たちにとっては、「ねぼろけだごと、いってんなず」ですわなあ。

だが、待てよ。「雪待ち」という言葉、よくよく見れば、
人からの視線で見れば、「雪を待つ」だろうが、自然からの視線でいえば、
「雪が、待っている」のだ。「雪が降るのを待っている」。
雪待ち・・・。なかなかの余韻。


アカギレ
子供のころから、皮膚が弱かった。
冬になるとカカトがひび割れて、血がジワーッと出てくるし
痛くて、床につけない。メンソレータム塗っていたが、
とにかく、雪国の冬はひどかった。このヒビ割れをアカギレと呼ぶのだが
こうした痛みがかなり和らいだのは、関東に住むようになってからだ。
それでもカカトにアカギレはできる。痛くてかかとをあげるほどではないが、
ほおっておくと、切れ目から内部の肉が見え、まるで地球の地層を覗くように
赤い血のしみだす肉が見える。さすがに痛くて、床につけなく
なったりすると、マツノばあちゃん直伝のガムテープを張る。
すると、かかとは乾燥しなくなって、楽にはなるのだ。
こうした皮膚の弱さは全身におよび、雪国時代、冬になると、皮膚が乾いてカサカサになり
痒くてたまらない。そして白い粉のようになって皮膚がおちてくるのだ。
服をぬぐとき、粉がそでやズボン゛の先から落ちてくる。
それをみて母親が「カス・ビッキ」と笑ったりした。
「カスは粉であり、ビッキは蛙」だから
粉噴き蛙という意味なのだろう。小さいうちは、意味がわからなかったが
だんだん判るようになった時、「この人は本当に俺の母親なのか」と
子供心に、ガッカリとしたものだ。
こうした皮膚の弱さは、春になってトレパンの時期はいいが
短パンになるころになると、皮膚がカサカサして白いのだ。
はずかしいので、水道の水を脚に当てると、皮膚は本来の肌色になる。
こうして、素早く脚に水を当てたりしていた中学生時代。
今日、軽石を買ってきて、カカトをゴシゴシやりながら
そんな記憶が浮かんできたのだ。
この皮膚の弱さは、いまでいうアトピーの一種なのだろうか。

1月20日


懐かしの豪雪

ずいぶんな大雪が降り続いている。雪国生まれのワタシには
雪にワクワクするような気持ちは無くなっているが、大雪の風景となると
昭和三十年代の風景を思い出す。六十年代のはじまりのころ、
雪も多かったが、車がさほど走っていないような時代、
除雪能力も、今より各段に低いから、雪は捨てるとこなくて家のまわりに積もり続け
二階から出入りできるほど積もっていた。やがて除雪車が
夜の町をやってくる時代がくるのだが、これが来る前に
道路に雪だるまを作ったりしていた。「ヒロシ何やってんだ」などと
ばあちゃんに叱られても、除雪車がやってくる前に
必死でつくって、そして寝る。朝が来て外にでてみると、
雪だるまは、ぼこぼこに潰れているのだった。
なにか、負けてしまったような、現実の厳しさをみるような
そんな気がするのでした。


雪国のサンタクロース
小学生のころ、サンタクロースがどうやって
我が家に来るか、疑問に想った。まず、煙突が十センチくらいのだから
かーちゃんに、煙突無理だろーと聞くと
「歩いて入ってくんなだごて」と言われ、ひとまず納得する。
ところが、クリスマスに雪が無いときはいいの゛が、
雪が積もっていると不思議なことに気づく。
雪の外に、足跡が無い。昨夜から雪は
降っていないのだから、足跡があるはずた。
変だとまた聞くと、「ヒロシだら、うるさいなあ」と、煙たがられたものです。


抗議の電話をしてみたら

クリスマス・イブの24日。とっている新聞のなかに
「サンタクロースの正体は」という読者の文章が載っていた。
なぜ、このような内容を載せてしまうのだろうか。
この記事をのせる判断をした人間は、
想像力へたいして、実体はこういうものですと、各家庭に言いふらしているようなものだ。
あまりにデリカシーがない。文字の暴力とは、こうしたことをいうのだ。
新聞社に電話して、何故このようなことをワザワザ掲載するのだと抗議した。
すると苦情担当の係りは、「言っていることがわかりません。
お宅のおこさんはいくつですか。お宅は
この記事で何かあったというのですか」と返答。
手品の種明かしのようなことをして、そうした内容をのせておいて
「なぜ、怒っているのですか」と平然といわれ、絶句してしまう。
三十五年とってきた新聞。想像すること、想うことへの冒涜を
公式見解として載せている新聞を、これ以上読むつもりはない。


米沢弁で「そうです」の多様性

ほだ・ほだごで・ほだごでっしゃ・ほだべした・ほだそ・ほだっけが・ほだがい・ほであんめえ・ほでね・
ほだが・ほだがっしゃ・ほんねごで

そうだ・そうなんだ強調・そうでしょう・そうだろう・そうらしいぞ・そうだったかな・そうか・そーじゃねーだろう・そうじゃない
そうか・そうでしょうか・違うのだ


トイレ劇場
今度の家のトイレは少し広いので本を置いたりするスペースがあり
そこに、5匹のブタの焼き物がいた。3センチくらいのちいさな奴。
プタはのどかに並んでいたが、ある日から、同じくらいの大きさの
黒い牛が置かれるようになった。スペインのワインについていたオブジェ。
それがだんだん増えて五頭の牛になった。
するとトイレに入ると、家族の誰かが動かしていて、
牛がブタをおいかけてたり、ブタが牛を踏みつけていたり、牛全滅してたり
と、まるで戦場のように変わっているのだ。
コマメに画像の記録をとっていくと、相当面白い劇になっている


スイングガールズ的方言と「むがさり」「むさかり」

映画スイングガールズのテレビ放送を見て、方言の素晴らしさを感じつつも、
あまりの中途半端な置賜弁に、不満たっぷり、となった。
監督が、方言への重要度を、あのような程度に思っていたのだろうが
置賜生まれの身になると、デタラメすぎて、なんだよお、と思う。
このデタラメ感が判るのは、一部の置賜人だけなのだが、
どーせやるのなら、イントネーションは、徹底的にしてほしかったズ。
「ジャズやるべ」、ではなく、「ジャズやんべ」だもは。
主役の娘の父親のしゃべり方は、○だったっけは。

ところで、別な方言の話。
すかぱーのニュース専門チャンネルのニュースで
「岩手の一関だか遠野で、馬に乗っての嫁入り」というのをやっていた。そこで
「嫁入りのことを土地の方言で、「むさかり」と言う」、とやって
女のアナウンサーが何度か「むさかり」「むさかり」と言ったのだが
それを見て、私は、えええっ、それって変でねーがあとなったのだ。
米澤では、嫁入りのことを「むさかり」ではなく「むがさり」と言うのだよ。
「おむがさり」とか言うのだ。「むかさり」なら、古語として
意味あると思うが、ほんとうに、その土地では「むさかり」なんて
言うのかなあ。ニュース台本の間違いでねーのかあ。


一夜の夢のご馳走

八丈島にフットボール大会に行き、島の人たちの 心づくしの宴を味わった。
島のヒトにとってご馳走は、焼肉のようで、最初に焼肉が出た。それを食べているうち
いろんな魚の刺身が出始めたが、なにしろ、島で捕れた魚、名前聞いても
知らない奴など出てきて、刺身好きの俺は、ガンガン食いたいのに、焼肉など
食ったぶん刺身に行くエネルギーが落ちている。それがクヤシイ。そうして、宴は進み
宴は盛りあがり、終わろうとするのに、刺身の山はあちこちで
ドッサリと残っている。ああ、刺身、なんてもったいない。
その心残りが、脳にベットリとくやしさといやしさとなって残ったまま、ロッジに帰った。
この悔しさを帰宅後、奥方に話しているうち、ある風景が蘇ってきた。
それは、牛乳配達のバイトで生活して、インスタントラーメンの日々。
夏は茄子が安いからナスを食い、冬はミカンが安いからミカンを食うような
カスカスの生活をしている時に、手塚賞の準入選の受賞となり
授賞式に出かけた。それはたいそうなパーティーで、テーブルにはご馳走の山。
みたことのない肉の料理やさまざまな食い物が宝石のように輝いていた。
ただの参加者なら、ガツガツ食えるが、受賞者ともなると、人目もあり
あちこちに挨拶などして、本気で食いまくることはできなかった。
そしてパーティーが終わったとき、大量の食い物が残っていた。
それらは、この後いったいドウナルノダロウ、ああもらって行きたい。
これらは、このあと捨てられるのか、考えただけで
気が狂いそうになるくらい、おいしそうなモノタチを残して帰れば、3畳の
アパートの部屋に、食い物など無いのだ。それから数日間、毎日毎日
あの食い物たちが現れて、もったいないなあ、食べたいなあと
夢の一夜を思うのだった。


雪崩現象

郵政民営化を反対していた参議院の政治家たち。
その反対のせいで起こった今回の選挙。
その結果の圧倒的な結果をみて、今度は、賛成に回るだとおおおお。
こんなに、コロッと、意見を変えられるのか・・・・。
自分の考えは、その程度のものなのか・・・・。
んん、凄い。恥とか、意志とか、そうしたものを
無くしてこそなれる職種なんだねえ。


ポスター
原画展で展示するための、ポスターをみつくろう。
何本にわかれてク゜ルグルに撒かれたポスターたち。
それらをひらくと、まるで年輪のように
過去が現れて来る。なんたって一番古いのは
横尾忠則さんが、高倉建主演の映画のために描いたやつ。
これは、高校3年のとき、映画館からもらってきたもので三十五年も昔のもの。
そして、つぎにたくさん出てくるのは、野田の劇団のために
描いたもの。今回、その原画が見つかった。ホドラー展と
伊坂芳太朗展のポスターにはさまっているところが、当時の気骨。
ほかにも、クリスマス・パラダイスの横尾さんのポスターや
ゾンネンシュターン展のものなど、自分の二十歳台の気持ちが
ポスターのなかに写っている。伊坂さんの絵の模写も出てきた。
突然、二十歳の気持ちと、面会しているようだ。


絶句

台風が来た。今年の春移植した木々は、根が伸びていないので
大風吹いたら倒れるなあと思ったら、あの時のことを思い出した。
それは、96年秋に裏の土地を買って、庭造りを始めたときのこと
沢山の木を植えたが、とくに大きいのは ケヤキだった。
そして翌年の5月、とんでもない大風が吹く日、我が家の電話は
次々と鳴り続けた。その日、新聞に、日本漫画家協会の大賞受賞が
発表され名前が出た。「モガモガ新聞ですが・・」、ところが庭が大変。
大風で、グラグラゆれるケヤキの根が浮きあがってきたのだ。
このままでは倒れてしまう。そーだロープと、ロープを張って
アチコチ縛ろうともがいていると、また電話。体にロープ巻いて
ピンと張ったまま芝生に倒れて電話に出ると、
「もしもし、ますむらさんですか、モゴモゴ新聞のものですが、大賞
受賞おめでとうございます」。こっちはロープ張って
必死なのに、いろいろと基本的な質問が始まる。
そして、「お描きになった作品の、内容というのはですねえ
かいつまんで言うと、どんな話なんですか」。絶句、さすがに頭に来た。
そんなもの、調べてくれよなあ。


「高所恐怖症対火山小僧、昭和新山の宴」

七月十七日、日曜、午後2時すぎのバスで洞爺湖温泉を目指す。
途中、中山峠への上りで、絶壁的な道を走るだけで、窓のカーテンを閉める。
あー、やだやだ、高いところは、怖いのだ。5時ちかくに、停留所を降り
三松さんに電話。するとニ千年に噴火したときに出来たモニュメントが
裏にあるから、見ててくださいと言われ、行ってみる。
洞爺湖温泉のそばに、デンとそびえる大きな山、有珠山は、時々
噴火をするのだがが、そうした活動が裾野で起こると、明治新山や
昭和新山を作る。この昭和の活動を、戦時下において
コツコツと記録し、もともと畑だったところが火山になったのだが、その山が
荒らされるのを見かねて、私財を売って、火山を買い取った男が三松正夫。
そしてそのお孫さんと結婚して、こうした歴史を後々へと
伝える仕事をしている記念館の館長さんが三朗さん。
僕は八十九年に、「旅」の取材のあとここを訪れて、正夫さんの残した火山観測絵の
凄さにうたれ、三朗さんの書いた本「火山一代」に感動した。
そして、「また、行きます」の年賀状何枚も重ねて
「今度いらしたら、昭和新山に登りましょう。そして溶岩から
噴き上げる噴気の熱で、蛸を茹でましょう」というお言葉をいただいてきた。
そりゃあ、登れるものなら登りたい。
しかし、ガウディ好きでサグラダファミリア行っても、上にはあがれない
高所恐怖症なのだ。とても、上まで登れそうにはない。
まあ、行けるとこまでは行きたいが・・・と、ワクワクものというよりも
怖いものが待つことへの、恐怖をひきずっての旅なのだ。
二千年の噴火は、洞爺湖温泉のすぐ裏で起こり、
保養所や桜ヶ丘団地は、泥流で無残な姿をさらしていた。
流されてきた橋、「やすらぎの家」という看板の名前と泥流跡の落差。
火山の恐ろしさ、自然の強大さは、視覚を通してガンガ゜ン迫ってくる。
ああ凄いと、戻り道。遠くからの視線を感じ、見ると三朗さんだ。
挨拶して、車で宿に送っていただく。風邪ひいているらしく
咳が苦しそう、シメシメ、ひょっとして風邪が酷くなって
昭和新山登頂作戦、中止にならないかなあと、期待する。

十八日・月曜
曇天、6時すぎに宿の前から、昭和新山をスケッチ。
小雨がパラリ。これでは登頂は無理。8時過ぎ三松さんの車で、
金毘羅山噴火口に向かう。
一般人立ち入り禁止の道。ヘルメットかぶり、特別案内人の力で
噴火口に近づいていく。しかし健脚でアチラはスイスイ。こちらは
最近のフッチボール練習による多少の鍛えもあり、なんとかついていく。
二つの噴火口を覗き、枯れた木々を眺め、静まり返った風景のヘリに
昨日見た団地が見える。近い。あまりに近い爆発火口だ。
そこから山道を降りてくると、西山火口群への観光散歩道がある。
小雨が降りだしそう。歩いて向かう。国道が沼に沈んで、
スピート標識が沼から顔を出している。その脇の道を歩くが
道も左に下がっていて歩きづらい。
そして蒸気を上げる第一火口が現れる。そのとなりにも、隣にも
火口が四つくらい点在している。きゃー、かっこいい。
さっそく、3色ボールペンでスケッチ。ささささと描く。二枚目も位置を移動して描く。
それから、歩くと、工場がボコボコになっている。これらの噴火口は
国道の上に現れたのだ。そしてどこかの立派な邸宅の門が
廃墟になっている。その向うに、幼稚園。カベに噴石が突き刺さっている。
凄い。あまりにわかりやすい恐怖だ。車で移動。七十八年の有珠噴火のさいの
地盤の隆起による病院を見に行く。立ち入り禁止のなか、特別許可によって
なかに入る。廃墟好きには、シビレル景色。だが地面の隆起による
傾いた廊下やカベ。左に傾いた床を、さあ歩いて見てくださいと言われ
歩くと、頭がグルグルする。体は本能的に地面に対し、直角を作ろうとするために
傾いてしまうが、それでは曲がっているのだ。そのことに
平衡感覚が気づき、混乱を起こす。実に奇妙な感覚。
それから、昭和新山が誕生のさい、どれだけの隆起があったかの体感として
鉄道の鉄橋橋脚を見に行く。道路から山道をどんどん登る。道にはキノコが生え
ほとんど人が来ていないことが判る。やがて突然橋脚が現れる。
さっきの道からどれほど高くなったか、もともとは、あのような低い場所にあったのだと
実感しつつ、急な下り道を怖いよおと降りる。
そして昼食。三朗さんは、ジャンボ焼きソバを推薦するが、ネギトロ丼をご馳走になる。
しかし、カツドンもうまそうだった。午後は、ワタシのリクエストで、正夫さんのお墓に行く。
まず、郵便局のあった元の自宅跡に行く。ここから、正夫さんは、隆起してくる山を
観測していた。今は家も増え、昔のようには見えない。そしてお墓に行く。
「さあ、どこて゛も好きな墓にお参りください」などと言われても、とれがどれだか判らない。
南妙法蓮華経とだけあるのが、正夫さんの眠る墓だった。土台が高くて、階段つきの
不思議な形のものだった。「いやー、草刈していてヨカッタ」とおっしゃられていた。
合掌して移動。戻る道で、ここから写真とりたいというと、それでは、あの郵便局から
見ていた画像に近い場所にご案内しますと、田んぼの方へ行った。
ああ、この形。溶岩ドームが御椀を伏せたような形になっている。
そして屋根山が土台のように広がる。そしてその後ろに、有珠山が見え、この有珠山も
昭和新山のように、山の中央から溶岩ドームがゴッソリと突き出ているのだ。
巨大な親父・有珠のそばに誕生した息子みたいな昭和新山。その対比が
ここから良く見える。絶景なので、スケッチをする。それからミマツダイヤグラム製作の
観測のときの目印になっていたお堂に行き、いよいよ新山に向かい、記念館で奥様に挨拶。
ロープウエイの切符を頂き、有珠に登る。前回来たとき
このロープウエイ乗っているので、怖いはずはないと立って乗っていたが
スッと上がったとたん急に怖くなって、床にペタンと正座してしまった。山頂につき
びくびくもので降り、なんだこの突発的なパニックはと、自分で自分をもてあます。
みんなは、右の展望台に行くが、怖くて、柵のそばには行けない。ハアハアいいながら
噴火口が見える丘に上っていく。前回来たとはき、ここから先は立ち入り禁止だったが、
今回は外輪山に沿って下に降りていける。しかし、それほど降りないところで
スケッチをする。前回来たときは、けっこう夕方で、人が居なくて寂しかった。
今回は時間帯的に3時ころなので少しは人もいて、上から見た昭和新山の
スケッチもして、帰りのロープウエイに乗る。おそるおそる下を見ると
ナーンダ、ちっとも高くないじゃないかと、安心する。記念館に戻り、今回の
ワタシのなかのイベント「昭和新山の前で、フットボールを蹴る」を
敢行するべく、ボールを持って、芝生で蹴る。好きなもののそばで
好きなことをスル、なんとも幸せ。そしてスケッチもする。
それから記念館にもどり、展示を見る。なんと、正夫さんが卵噴気で
茹でている写真のそばに、スミレ博士が蛸茹でている図が並んでいる。
そして火山形成過程の図のところでも、噴火口で騒ぐ博士の図。
ああ、なんて光栄な・・・・。
五時閉館の時刻、三朗さん、自宅での静養から戻り、国営放送での
火山番組で必ず現れる伊藤解説委員もやって来て、その方に
ワタシの紹介をするのだが、その内容が「この人が、
みんな避難している場所に、不謹慎なメールをくれた人です」では、
ちっとも紹介になってませんです。
そして本日も宿まで送っていただく。
「ミマツさんも、風邪酷いようですので
明日の登山は、無理しないで、中止していいですよ」と言ったら
「せっかく、高所恐怖症が怖がる姿を見れるのに
止めてなるものですか」などと、まったく可愛げのないことをオッシャル
さあ、明日は、いよいよ、昭和新山だ。しかし、いったいドコまで登れるのか。

十九日・月曜
ついに、昭和新山の宴の日が来た。
めちゃくちゃにイイ天気。がんがんの陽射し。七時五十分、約束の時刻ピッタリ
ミマツ夫妻到着。そして記念館に向かい、いよいよヘルメットをかぶり
軍手をして、ショルダーにカメラ、ペットボトル3本、スケッチブックを持って出発。
立ち入り禁止の柵の鍵を開け、木立の山道登るとまもなく開けてくる。
下界のみやげ物屋が見えるが、気持ちはイケルとこまで行こう。
どうせ、どこかで高所恐怖症の限界が噴火するのだ。スイスイと登り
だんだん高いところに上がっているという、その事実が怖さをチラつかせて
ついに、沢が現れる。上からの岩や砂が崩れてきた沢。
この沢の途中の高さを横切るのだが、左に向かって落ちているところ、
普段なら、こんなとこ、ワタシが行くわけがない。ここでギブアップだ。しかし、
はいつくばってでも行こう。怖くない人は、坂道を横に慎重歩く、で行けるのだが
ワタシは怖いから、坂に沿って身を張りつかせ
ゴザゴザともがきながら、少しづつ移動する。それはまるでスケッチブックを
甲羅に乗せた亀のごどき姿なのだ。ヒイヒイいいながら、沢に手をかけて
必死でナントカ渡った。そしてそこから岩ダラケの沢を登り、木々の坂を登る。
そしてスッと開けたところを歩こうとすると、そこは右が絶壁なのだ。それで怖くて
そこを通れない。しかたなく、左にある低い木立を押さえて、その中をバリバリ行くと
わおううう、屋根山に登った。がらん開けた緑の地。そして目の前には
巨大な溶岩ドームがドカンとある。がんがんの太陽。汗びっしょり。
僕のなかで、ある程度の満足が湧く。そして、ここまでの道、あちこちに
たくさんの草が刈られている。それは、三朗さんが、わざわざこの登山のためにと
草刈してくれていたのだ。まったく、その気持ちがありがたい。
さあ、噴気の上がっている場所は、もう少しです。そして再び移動を開始すると、
ああ、またもや、沢だ。しかも、さっきよりも、高い場所・・・・。
もう頭のなかで、混乱が起こる。とりかく行こう。ところがこの場所
さっきの沢と違って、表面が固い。軍手で爪を立てても、めり込まず、足だって固いから
体を寝かせるほど、足場が出来ない。そしてあと少しのとこで
もう、堪えられない。怖くて動けなくなった。沢の途中なのだ。
「だめです、もう、できません」。三朗さんが戻ってきて、足場ほ削ってくれるのだが固くて
しゃべるが曲がり、しかたなく三朗さんの足を支えにして、なんとか、少し平らなとこまで来た。
「ああ、もうダメです。限界です。」「でも、ホラ、こり先を少し登れば
あとは目的地ですよ」。しかし、この先に行く目の前にもまた沢があり、今よりも高くそこを上って
いかなくては行けない。今は、さっきの動けなくなった恐怖で
もう沢山なのだ。噴気の場所もなにもかも、もうワタシにはいいのだ。
三朗さんたち二名で上っていただけばいいのであり、ワタシはもう
ここでギブアップなのだ、となり、「とにかく、ここに居ますので、どうぞ
上がってください」となった。すると、「恐怖て飛び降りたりすると困るので
とにかく、さっきの緑の場所まで戻りましょう」と言われ、
戻ることになった。だが不思議なことに、さっきよりもヤリズライのだ。
利き足が逆になっている。左足より右足が強いので今度
左足でふんばろうとしても、力が弱い。それゆえ、移動がサッキよりできない。しかも土が固い。
三朗さんが足で踏ん張り場所を作ってくれ、なんとか移動し続け
あとは、自分で行けますのでと途中から、一人で続きをやった。
ところが、途中に噴気がうっすらと吹いている場所があるのだが
そこは、地面も熱いのだ。じっとそこに居ると熱くなるので腰を
浮かそうとすると、ズルズルと滑る。怖いので地面に
へばりつく。すると熱い。まるでチャップリンが
一人芝居で高所恐怖症をやっているみたいに、デタラメなマヌケな
身悶え。しかし、熱いし落ちそうだし、情けないしで
グルグルしながら、ズボンは、汗と砂で泥ダラケ
汗びっしょりになつて、なんとか屋根山の野原に戻り、
シャツを脱いで絞るどビショビショ。スケッチブックも汗でゆがみ
目の前に広がる草刈を跡を見ながら なんとも、情けない気分なのだ。
怖いという気持ちは、どうしょうもない。そうした気持ちを
もてあましながら、有珠山をスケッチ。そして三朗さんより携帯が入り
これから山頂へ登頂するという。こちらは、溶岩ドームのスケッチ。
こうして2枚のスケッチをし終わるころ、三朗さんたちが戻ってきた
亀岩と呼ぶ亀の甲羅のような形のところから噴気があがる
そこに、いれたものにフタをして、山頂に登り、戻ってから
なにか挟むもので、ひっぱり出したとか。
「さあ、食事しましよう」
銀紙でくるんだものを開くと、茹卵。それからホタテ、そして蟹シュウマイ
蛸は「たこ焼き」。そしてオニギリを食べる。
ほんとなら、亀岩で、噴気のところで食べれるものを・・・
おいしいものをいただいているのに、自分の恐怖心が
情けなくて、ツライ。しかし、つらがってばかりはいられない。
食べれば、だんだん、気持ちも良くなっていく。
こうして、ペロリと食べて、炎天下の場所から下山する。沢を横切るときは
やっぱり同じように怖いのだが、なんとか横切り、あっというまに下まで降りてきた。
ズボンは泥ダラケ。記念館の前で、泥ダラケのタオルを洗い
短パンに着替えて、三朗さんの家に行く。そして自宅の温泉風呂をいただく。
温室にしていたとある風呂ではないか。赤い湯垢。天井の木漏れ日。
なんとも素晴らしいお風呂。上がると、缶ビールが用意され 2本呑んで、もー幸せ。
ほんとに至れり尽せりです。そして千歳まで車で送っていただいた。
チョロキューのように、ブンブンぶっとばす車。千歳空港で、サッと去っていくその姿。
もおおお、真琴に真琴に、感謝でございます。
しかし・・・・、これから三朗さんは、いろんなところで
あの山の紹介をするさいに、「スケッチブックの甲羅を背負った亀も
登ったりするのでございますが・・・高所恐怖症の亀は、それはそれは
大変なもがきようでございました」などと、・・・・
語るよーな気がしてならないのであります。


下駄

子供のころ、下駄をはいたりしていた。
米沢では、この下駄や靴で遊ぶヤリカタがあつた。
それは「下駄隠し」というものだ。
「下駄隠し、しねがあ」と誰かが言い
やるやると仲間が集まると、まず片方の履物を脱いで
並べる。鬼を決めるのだが、ここで
たぶん、唄を唄うのだ。唄を唄いながら
歌詞の韻に合わせて、誰かが、その並んだ靴や下駄を
一個づつ、足で軽く触っていく。
「げーたー・かーくし・マンナイダー、
マンナイダーのしーたーあでー、…歌詞忘れた・・・
ミーソなあめー、しーおーなあめー
しょっつぱい・ぴ」
この、ピで止まった靴の人が鬼だ。
で、鬼は目隠しして待っている間に、みんなは
近くの茂みなんかに、自分の靴の片方を隠す。
そして鬼がその靴たちを捜すのだが、隠す場所が
すぐ見つかったり、何度もやって場所に行き詰まったりすると
、やけくそになって、オリャと適当に靴や下駄を
蹴り飛ばすやつが居るのだが、そーいうことをしていると
屋根にのって、とれなくなるヤツもでるのです。

下駄とお天気

下駄をはくと、やりたくなるのが
お天気占い。明日の天気はーといいながら
オリャっと下駄をけり飛ばすと、クルッと空中て゛回って
地面に落ちる。表のままなら、晴れ、裏なら雨。
だが真横に立つ時がアル。まず立たないが
ほんとうにときたまある。これは、雪だ。
一度、夏場近くに、立ったことがあり
「あっ、明日は、雪だ」と驚き、ほんとかなあと疑いながら、
それでも翌日、少し降るような気がして、目覚めたものだ。


夏1番威張ってたもの

子供のころって、どうしてあんなに 甘いものを
欲しがったのだろう。
昭和三十年代。小学生だった僕は、
近くの下駄屋さんちに、毎日遊びに行っていた。
そこの子供と遊ぶと、3時のオヤツとして、
「砂糖・湯」が出てくるのだ。
砂糖をお湯で溶いたもの。これが楽しみだった。
それほど、砂糖だって、貴重品の名残があつた。
そんな時代の夏、アレは、まさに偉大な食べ物だつた。
夏のアル日、家に帰ってくると、マツノばあちゃんが゜
「ヒロシ、流しさ、行って見ろ」と、言う。その声のトーンに
おおっ、まさか、と思っていくと、大きなタライに、ドブンと
西瓜が浮かんでいる。
きゃーーーー、西瓜だあ。食いたい。ああ、早く。
こうして、あの丸くて偉そーな奴を食べるのでした。
それから、歳月がたち、我が子が幼稚園に行っての
夏のイベントで、「西瓜、好きじゃない」と食べないのをみたときは
ビックリした。
今の時代、甘いものに飢えていた昔とは違い
西瓜もまた、偉大な姿ではなくなったのかもしれない。


ヤフーオークションのアタゴオル原画販売について

本日6月14日、ヤフーオークションのますむらひろしコーナーを
みたら、カラー原画が額装されて、売りに出ている。
しかもその絵は、アタゴオル玉手箱・モエ版の2巻目の表紙に
描いたもの。もちろん売り物ではない。それが何故、売りに出ているのだ。
肝心の原画は、我が家の原稿収納棚に入っているハズなのだが
カラー原画たちは、フイルム撮影のために、一度や二度
自宅から出版社方面に行ったり、原画展に行ったりしている。
そうしたさいの数が膨大だったりすると、ほんとうに自宅に戻ってきたのか
今、ほんとうに我が家の棚にあるのか、こちらとしては自信がない。
しかし、こんな風にオークションに出ているということは、いったい何事なのだと
どうしても原画を捜し出すしかないのだが、私が三十年間描いてきた
原稿は何万枚もあって、そこから探すつーのは、簡単なことではないのだ。
家人が手伝って、カラー原画の束をしらべていく。しかし
簡単には見つからない。こりゃあ本気で徹底的にやるしかないと
本腰を入れて新しい束を出し一枚目を抜くと、まるで手品のようにその原画は在った。
ああ、よかった。まったくもう。フーッほっとした。
さて、このように、オークションの原画は、ニセモノである。
くれぐれも、こうした詐欺行為に、ひっかからないようにしてください。

追伸、私の原画は、売り物にしたものはほとんど在りませんので
カラー原画や漫画の原稿なと゛、出品された場合は、編集部が
返却し忘れたり どこかで紛失か盗難にあったものだけです。
原画は すべて作者に帰属するものですので
けして売ったり買ったりしないでください。

「風の又三朗」の表紙絵の原画や「猫の事務所」の表紙絵など
アニメ映画の宣伝のためと、どこかの書店などて゛、原画展などを
やったままになり、、出版社に返却されていないという状態で、数枚紛失しています。
また、「青猫島コスモス紀」の表紙絵も、出版社が印刷屋へ
送ったまま、返却をおこたり紛失しています。描いた人間にとって
気持ちをこめたものたちが、そんな風に無くなっていることが
どれほどクヤシイことか、判っていただきたい。
もしも、そうした原画、ご存知の方おりましたら、是非、ご連絡下さい。


暗い廊下
夜中の3時半、仕事部屋から応接間をぬけて廊下に出る。
真っ暗なそこを通ってトイレに行き、トイレから出ると、
あれれ、この感じ、どこかに似ている。廊下は幅があって
ガラーンとしていて、そこに四つのドアがある。そして
スリッパの音が反響する。
なんだ、この感じ、どっかで体験したと、この前も思ったが
さっきまた思った。そしてドコに似ているか判った。
ペンション・チキートだ。
バルセロナのあの宿の、深夜の廊下のガラーンとしている感じ。
そして家人の部屋から、まだ音楽が聞こえる。3時半なのに
まだ起きているのだろうかと、ドアを開けると
灯りとテレビをつけたまま、ベットでのびていた。
チキート、あのしぶとい階段と、重いドア、そして
旅人どもの一夜の赤ワイン。ああ二日酔いの、
高所恐怖症のテラスでコーヒー呑みたい。



深夜「日航123便墜落事故・隠された証言」を読む。
この事故に関係する本を今までに数冊読んでいる。
それは、この事故がとても疑問に満ちたものだからだ。

85年の夏、8月12日、「クイズ・百人に聞きました」というテレビ番組を
見ていた私は、突然流れたテロップを、今も覚えている。
「日航機、行方不明」。関西に向かって羽田から飛んだ五百数十人乗りのジャンボ機が
伊豆半島の先、駿河湾あたりで行方不明というものだった。
ああ、こりゃあ落ちたなと思った。その夜は〆きり近くで、
仕事をしていたのでテレビを点けっぱなしにしていた。
静岡県の上空で行方不明になった機体の一部が
海上から発見されたというニュースがまもなくあり、海に落ちたのか
少しは助かった人がいるのかと気にしていたが
そのご、新しい情報がない。すると突然、落ちたのは海ではなく
山梨だか長野だか、その辺だとなった。
なんだこりゃ。
そして夜も深まってきたというのに、一晩中、どこに落ちたのが
墜落現場が定まらないという、なんとも情けない混乱。
そして一晩中仕事していると、夜明のテレビが生中継をしだし山腹から
煙の上がった事故現場がとらえられた。
だがこの時でさえ、現場に救助隊は到着していなかったということは
後々この事故に関するいろんな本によって知らされる。
御巣鷹山あたりに落ちただろうという、地元の人たちの証言があっても
県警による捜索隊は、勝手な行動をとるなと、山中に入るのを禁止。
そして別な山を捜索しつづける。いったいなにゆえ、現地の人の声を
無視して、無関係な山を捜索したりしていたのか。
そこには、「ほんとうの現場を立ち入り禁止にしたい」なんらかの思惑が゜
あったのではないか、という疑問が生まれる。
そして最大の疑問は、事故原因とされた垂直尾翼の崩壊
これが何故起こったのか。調査委員会の説は「圧力隔壁の破壊」というものだったが
もしも、そんなことが起これば、室内に外気が入り込み、超高度の冷気が
流れ込むのに、生存者の質問解答では、そのようなことは無かったと
証言しているのに、それが巧みに改ざんされて、「圧力隔壁の破壊」説を作り上げていく。
では、垂直尾翼は何故破壊したのか。
そして墜落現場がなかなか特定できず、
どこかの新聞社がその位置を発見して指定したにも関わらず、捜索隊は一晩中
その地にたどりつかなかったのか。
そして、この二つの謎から、尾翼は何者か過失によって、破壊されたのではないか
その証拠を消すために、現地への到着をのばしたのではないか、という疑問さえ浮かんでくるのだ。
その説のひとつが、自衛隊が現場付近でミサイル実験をしていた、というもの。
事故から随分たったのに四名の人が生存した。しかし、墜落現場に
もっと早く救助隊が到着すれば、まだ生きている人もいたのだし
助かった可能性はある。
いったいなにゆえ、捜索隊は一晩中、たどりつけなかったのか。
どんな指揮系統でこんな失態をしたのか。こうした大事故における鈍足ぶりは
神戸震災のときの、自衛隊の鈍足ぶりでも判る。命令が正式に出ないうちは
勝手な行動が出来ないのだ。
そして、もうひとつの疑問、尾翼の破壊は何故起こったのか。
こうした事故の調査報告書が、今や廃棄処分されだしている、というのも凄い話だ。
個人の憤りや良心は、この国のしきたりと、永久に対峙しなくてはならない。


優勝
バルサの優勝がかかった試合のある土曜日、横浜までの練習に
バルサのユニホーム着て行った。派手である。
なかなか日常着れる服ではない。だが今日は祭りのハレの
日、日本にも沢山いるバルサ・ファンなら、
ユニホーム着て朝から気合いの入る日なのだ。
だが1日そんな同類とは会わなかった。そして、その翌朝
ついにバルサは優勝。うえっへっへっへと横浜の町を
またもやユニホーム着て歩いたが、やはりドコにも
バルサ服は見かけなかった。異国の優勝、そりゃあ、そーだけど
なんとも不思議な、リアリティの無い
この日本に、バルサファンなどいないような、透明な気分だった。
だが、現地では、どんだけ凄かったか。
ああああ、こんなことなら、行けばヨカツタ。うーうー。
後悔とは、諦めきれず、何度も何度も、起こるものなのねえ。


チーズ流行り
原因はワインて゛ある。ワイン飲みながら
漬物やしめ鯖などを食っていても、どーもピンとこないのに
チーズ食ったら、ピンときた。なるほど、日本酒に漬物は
ピンとくるのも、みーんな、その土地のなかで、合うものを
捜してきたのだ。こーしてチーズの味に多少はまったため
ロックタウンの売り場のいろんなチーズ買いあさり、並べて食すと
フムフム、深い世界だわー。
そして、アロファルファが現れる。
六十年代前半のガキどもの番組「チビッコ・ギャング」のなかの
、チーズのかわり石鹸食ってしまったアロファルファ少年が
口から泡を吹く話など、思い出すのでした


ゴッホの謎

ゴッホの絵をモチーフにして、新しく描こうとすると、
細部がヨクわからないということが何度かあったが
今描いているヤツもヘンなところがあるのだ。
それは、「夜のカフェテラス」ではなく、「夜のカフェ」という
カフェの室内の絵。天井が緑、壁面が赤。赤と緑の補色対比が
ドギャーンと画面で戦っているところに、黄色い照明や床が輝く。
そして中央にビリヤード台。そのわきに白い服着た給仕。
さて、この絵のドコが問題か。
それは、画面上部の時計のかかっている壁面の
黒っぽい四角形の部分。
これは、いったいどーいう構造で天井に対して直線で上昇しているのか。
赤い壁面に割り込むように入ったこの黒い部分とその右の緑の
箇所も、なんなのだろうか。天井の緑も、、、、。
現実のこの店の中は、たぶん、こんな補色の色では
なかったのではないか。ゴッホは、「恐ろしい快楽と奈落」を
表現するために、赤と緑を持ち出したのだとすれば
やはり、あの黒い四角形のなかに、彼は、なにかの意味を
描いているのだろうが、それにしても、構造的に、天井部分は
左右に放射角を持つべきでしないか。
なんで、こんな妙な形なんだ。
うーむ、オーベルの墓掘って、聞いてみたくなるわ。

さて、画集などを見て、この形の奇妙さの正体、何か
意見ごさいましたら、メールしてください。


アウェイ感覚の欠如
もう、なんべんも書いたことだが、
アウェイ感覚の無さ、これこそ島国ボケなのだろう。
柏での、名古屋との試合。ホームだっーのに
柏はまたも負けた。私は現場に行っていないから
そのあとの乱闘の原因が何なのか、正確なところは判らないが
まあ、柏が勝っていたら、たぶんトラブラないだろう。
7戦して一勝しかしていない。負けてむかつきまくっているところに
名古屋サイトから、なんらかの兆発的行為があったのだろう。
では、どんな兆発があったのだろう。
ひとつの情報によると、「勝った名古屋のサポーターが
選手たちが引き上げても、応援の唄を歌い続けたことにある、
こうした応援は選手が引き上げたあとはやめるというのは
サポーター間のとりきめとしてある、」とある。
普通、「なーんだ、そんなのくらいで」と思うだろう。
だが、かつて私が見に行った柏対磐田戦。磐田が勝ったあと
いつまでも、磐田のサポーターがコールしていた。
そんとき私は、「こらー、いーかげんに、帰れコノヤロー」という気分になり
「うるせー、帰れー」と叫んだのだ。
アウェイで勝ったあと、馬鹿騒ぎなどすることじたいが
兆発だっつーことが、わからないのだろうか。
敵地で勝つこと、その快楽は、恐怖をセットで在るつーのは
海外では常識だぞ。敵地でユニポーム来て、その町を
歩くことじたい、危険だし、勝った試合などよけい、帰り道は脱いだほうがイイ。
こうした感覚の欠如、アウエイに行って勝って、
そのあと兆発的なコールや唄など歌ったら、
すでにそれは、ケンカを売っているのだ。
もちろん、それを買って突入した柏のウルトラたちが
悪いのは当たり前だが、アウェイ感覚の無さ、
それこそが、フットボールが抱えた魅力のなかの
恐怖部分であるということが、判らないのはホントに
島国ボケなのだろう。


高田渡さんのこと。

渡さんを初めて見たのは、吉祥寺の飲み屋街。二十二歳の
僕はそのとき、シバ君と一緒で、「今度、ブロンズ社から
本を出すんだ」とシバ君が言うと、「ヤメロ、出さないほーがいいよ」と
酔っ払って言ったのだつた。それからまもなく、野田のカンパ小屋という
ちいさな部屋で、渡さんにライブをやってもらおうなどという
恐ろしい企画の交渉に、熱烈ファンのナペちゃんの助手として
渡さんに会いにいったのだ。たぶん、この時、僕は青林堂で働いていたころ。
ナベちゃんの手が震えていたのを覚えている。
こうして、渡さんは野田でライブをやりにきたのだが、ライブ前に
歓待するために、僕らが案内した場所は、ホワイト餃子だった。
僕はユーアールシーから出た最初のアルバム、風船との半分づつのやつと
キングの一枚目。特に「自転車に乗って」や「コーヒー・ブルース」
そして「生活の柄」などが好きだったが
野田のミッチャンが、その後のアルバムを買っていたので
借りて聞いていた。なかでも「御金ばかりを借りてー
歩き回っているうちに」という唄が、お気に入りで、酔っ払うと
よく歌うのだ。山之内獏という沖縄の詩人の詩。
この詩のなかで、「僕が死んであの世に行くと
そこには先に死んだ親父が怒って待っている」という展開なのだが
この唄の飄々した雰囲気、そして渡さんのフーテン1歩前のような
生き方は、ドアや塀やカベの材質にこだわってしまう今の僕の生活を
「へへん」と言いながら、消えてみせたのだ。
今夜は歌います。合掌的な合唱が、日本の各地で起こる夜。


牛乳箱
引越しで、あちこち整理するといろんなものが出てくるが
そんななかに三十二年前から持っているもがある。
牛乳ビンを運搬するための二十センチ×四十センチくらいの木箱だ。
当時、僕は神田の雪印牛乳販売店で働いていた。
毎朝の配達に自転車にこの木箱を積んでいくのだが
そのころは、三帖間のアパートに住んでいた。そして
高田渡さんの文章のなかに、本だなは牛乳箱、というコメントがあり
よしとばかり、二十個くらいの数をコツコツ部屋に運び込み、
黄色い箱に白いペンキを塗った。狭い部屋で
寒い季節、しめきってペンキ塗っていたら、しっかり
シンナー中毒にかかり、幻覚が起こって、寒い寒いと毛布かぶっている自分に
気づいたりした。あれから何度か引っ越して、そのたび
牛乳箱の本だなたちは、少しづつ捨てられていったが
今残っている三個は、想い出なのだ。
捨てられない記憶が、箱化している。


タコに何を望むか

タコが2足で海底を走る画像を見た。
その瞬間、アレレと思い、それなりに面白いとは
思ったのだが、僕の中で、なにか予想しないような感情が湧いた。
ムッとしたのだ。何やってんだコイツ、というような。
何の為に、8本も持っているのに、結局、機能性とかで2本走りしてしまう・・・
なんだか、ショセン、人間的な2足に成ってしまう様に、ガッカリしたのだ。
ふーむ、この感情は面白い。何故だろう。そーか、僕のなかでタコに対して
何か、人デナシ的な、人とは違う異質さを気に入っている、ということなのだ。
タコに何を望むか。2足歩行などヤラナイことを希望します。
それにしても、残りの六本を身体に巻いたり、もてあまして走る姿
あれこそ、実は人間そのものの姿だろう。


カルチョの国
中村俊輔が、フリーキックを決めて勝ったレッジーナの試合のあと
テレ朝にインタビュウされていると、通りがかった老人が
俊輔の身体に軽く当たり、彼が、んっと振り向くと、「ユニホーム
ちょうだい」と言う。俊輔の手にはビニール袋、そのなかに
今まで着ていたユニホームが入っていた。俊輔が
さっとユニを渡すと、老人は「グラッツェ」と俊輔の肩を抱いて
去っていく。孫のような年の差なのに、老人にとって彼は
土地のアイドルなのだ。そしてそれを見ていた親父。
ツツツとやってきて、俊輔のそばに立ち、もじもじしながら
「パンツ、ちょうだい」と言う。彼はうれしそうにパンツをもらい去っていく。
カルチョの国だねー。


コロッケ
コロッケが好きだ。子供のころは、
米沢の町のコロッケ屋さんで買うコロッケ。確か
神田コロッケ店つーのがあった。ここが店じまいしたときは
寂しかったが、満月食堂というとこがコロッケを売るようになって
ここが好きだった。自転車で買いに行き、熱いのを
ふーふーしながら、自転車に乗って食べる、そんな高校生だつた。
だが最近では、スーパーのコロッケとか、まず食わない。
なんだか、あのころの味と違うのだ。あのころの味は
今も、自宅で作ったコロッケで味わえる。大量に作ったコロッケを
ムッシャリと食うのは、シアワセだ。
「オレが死んだら、お墓に、コロッケあげてくれ」
「寿司じゃなかったの」「寿司でなくて、コロッケ、それを
いっぱい積み上げて、墓を覆ってくれ、コロッケの山で」


毛布は偉大なり
引越しで、大きな本だなを運ぶ。三人がかりで
やっとこ運ぶ。いい本だなは、木がシッカリしているから
重い。これを運ぶのに、床に毛布をしき、それに置いて
浮かしぎみにして運ぶと、凄く楽だ。
まるで毛布が偉くアリガタイものに見えてくる。
それもこれも、重たい状態でヒイヒイと、何個が運んで
みたから、感じることなのだ。苦痛と思考錯誤が
あってこそ、結果の素晴らしさがわかる。



引越しが始まり、本の移動が始まった。
大量の本があり、これがどうも処分できない。
本好きには二種類あり、本を読むのが好きなのと
本を買い所有するのが好きなのと。
そして、こんな本いつ買ったんだろうという
まったく記憶になく、しかも、桜島の噴火写真集とか
またどこかで会ったら、買ってしまうやつや
逆にナンデコツケナモノという風なのもある。
こうした記憶にゴザイマセン本は、過去にさかのぼれば
どんどん増えるつーものではなく、ある時期からなのだ。
過去、ほんとうに金の無い時代、すなわち小石川アパート時代や
野田北村ハウス時代など、無い金で買おうとするから
それらの本は、想い出や気持ちが残っている。
なんで、こんな人の本やしちめんどうくさい本買ったのかなと
思うとき、それは自分の航海初期の、方向のサダマラサだったし
そうした本は、高くてツマラナクテそれも経験だ。
ところがある時期からの本には、買った記憶のないやつが
ゴロゴロとある。それは九十年前後からであり、
その時期は、いそがしく月4本状態のしめきりで、
ほとんどカカッテキナサイ的状態で、ストレスの
はけ口みたいに、本を買ったのだ。
そうしたストレスは、仕事のきつさが薄れるにつれて
消えていったが、それでも本の買い方は、どこか
残骸のように、パッと買ってしまう。
迷って、サイフの中と相談して、やってこ買った小石川時代
神田の古書町で、歩き回ってみつけた本。ほんとうに
貧しい生活だったが、あのころの私は、今の私より
本に対して、しあわせだったのかもしれない。


心に残るマンガ
記憶の中で、何故か、ずーっと残音のように
印象だけが残っているマンガがある。
それは小学生になりたてのころの僕が、親戚の骨董屋に
あった、たぶん隆ちゃんが読んだマンガ本を読んだのだ。。
それは、タヌキたちが大暴れして、オデンとか食うやつだった。
「八百八ダヌキ」。これが怖かった。タヌキが怖かった。
作者は、あの杉浦茂先生。この方は僕の年より五つくらい
うえの世代の人たちのヒーローだったのだ。
今読んでも、もう怖くはないだろうが、あのころは
このタヌキのパワーが脅威だったのだなあ。


初めての少女マンガ
割出町のウチのならびに加藤床屋さんがあった。ここで散髪してもらうために
時間待ちしているとき、少女マンガを読んだ。なんか可哀相な物語で
しっかりその物語の娘に同情して、暗い気持ちて゛床屋から帰ったのでした。


サスケ・忍法は科学だ
小学校のころ、千九百六十年前後
マンガ月刊誌「少年」を僕はとっていた。「鉄人28号」を読みたいためだったが
「サスケ」はここで連載される。白土さんのこの作品のなかでは、あちらこちらで
解説がつく。「ほこり茸」や光る茸の「ツキヨ茸」。そうした博学な解説のほかに
科学的な場面もあった。
それは、沼にはピラニアが住み入ることはできないが、沼の底には
宝石ヒスイがたくさんある。すると、サスケの父は、この沼の水をすべて吸い上げてみせると
悪人たちにいい、大きなイカダで火を燃やし、それを巨大な泥製のツツで上から
封じる。すると、水はそのツツのなかに吸い込まれてしまう。
この現象について、実際できるという解説がそばに描いたあった。
僕はさっそく、ナガシに行き、洗面タライにロウソクを立てて火をつけ
それから水を少し入れて、そしてそのロウソクの火のうえから
ガラスのコップをかぶせた。やがてコップの中の火は、酸素が燃え尽きて消える。
すると、コップのなかの水位が外より上がったのだ。
空気がなくなった分の気圧差ができたのだ。実際、マンガのように
池の水がみんな吸い込まれるほどではなかったので
半分ガッカリの誇張表現だなあと思いつつも、一方で
そうした科学的解説に、現象の裏には科学的理由があることに感心した。
ちまたでは、「マンガは馬鹿だ。劣悪だ」の合唱が起こっている時代で
そうした声をあげる人が、なんとも哀れであり、僕のなかで
マンガは凄いぞという確信が湧き、僕の未来の職業にさせてしまう原因のひとつは
白土三平さんの、この科学解説にもあったと思う。

二月二十一日


蛙の声するアビーロード
ビートルズ最後の録音になったアルバム「アビーロード」。
このB面、「ユネバギミユアマネー」の終わりから、「サンキング」の始まりの
ところで、虫の声が入っている。
このアルバムが発売されたとき、高校二年生の僕は
アメリカのオハイオ州にペンフレンドがいて
そのコに日本のアルバムを贈り、代りに今度発売される「アビーロード」を送ってもらう約束をしていた。
そんなわけで、発売されても、聴くには、高校で誰か買ったやつのを聞くしかない。
そこで聖山のところにいき、やつのお寺の本堂の裏にある部屋で
アビーロードを録音となった。ところが、ヒジリヤマんちのステレオは、お兄さんが作ったというヤツで
ライン採りのジャックが無い。そこでマイクを置いて、スピーカーからとった。
そして、問題の箇所になり、静かになるとヤツの庭の池の、蛙たちが、ケロケロケロ鳴くのだ。
だが、そんなことは、そんとき気づかないので、再生して何度聴いても
虫のコロコロ鳴くあたりで、実にいい感じで、「ケロッ・・・ケロケロ」などと入ってる。
このテープを散々聞いてから、やがてアメリカから送られてきた「アビーロード」
聴いたとき、「変だ、蛙の声が無い」と、違和感があり、それは長いこと続くのでした。


空気でドラック
「サージェントベパー」が発売されたとき、日本人はイモの巣であり
もちろん音楽シーンもイモで、買って聴いている自分もまた、イモだった。
マヌケな音があふれるチマタに、サージャントペパーのアルバムは降臨した。
そして、あの「デイインザライフ」。これを、「ミュージックライフ」などを読むと
最後の、ウーウーウーウと音圧が上がっていく箇所は、「えるえすでい」という
ドラック体験を音でやっているのだと言う。なんなんだ、ドラックつーのは。
幻覚つーのは、と、中2の私は、何度も「デイインザライフ」をかけて
ウーウーウーの場面に、精神を入り込ませた。そしたら、来た。
だんだん気持悪くなってきて、二階の広い部屋で、嫌ーな気分になり落ちたのであった。


マフラーを買いに

お気に入りの、モスグリーン色の
でっかいマフラーを酔っ払って、どこかに落としてしまった。
幅が六十センチで長さが2メートルくらのやつ。
これは南米のブエノスアイレスの町で買ったもので
あの国では、このよーなでかくて
立派なものをつけている人たちがまあまあいた。
日本で、これと同じようなものをまいてる人を見たことは無い
あんまり、クヤシイので、これまた
いい感じのを探して買ったけど、やっぱり
あれはあれでお気に入りだったので、
こーなったら、クラシコ見に、そしてマフラー買いに
アルゼンチンまで行くという目的が出来たな。


さあ、この文字、なんと読むか。
知らなかったなー、こんな漢字。多くのつーか、ほとんどの若者に無縁の
この漢字。ヒントは、昔メンタムを塗っていたのだが、
読めますか。読めませんねえ。実はワタシ、子供のころから
ひどく皮膚が弱く、寒くなり冬になると、皮膚はカサカサに乾き
足のカカトは、皮膚が乾燥によって割れ出して、たくさんの
アカギレが出来たのです。「アカギレ」、この漢字はそう読むのです。
皸は、とても痛くて、ついついカカトを着かずに
歩くほどで、そうした痛みは一冬続いたのです。
雪国を出で関東で暮らすようになって、酷いアカギレは少しは収まりましたが
それでも冬中起こります。昔はメンタムを塗っていたのですが
ある冬、米沢に帰ったら、マツノばあちゃんが、「博、いーものアッカラ
やってみな」と渡したのが、布製のガムテープ。
これを割れているカカトにペッタリと張りつけて、外気と振れなくすると
幹部は乾燥を無くしてやわらかくなり、痛みも消えるのです。
こうして、今もときどきガムテープ張っているのですが、この皸は
実は、天気予報なんぞより、はるかに凄い予知をするのです。
それは、冬の夜、一段とアカギレが痛くなるときがあります。
その翌朝は、間違いなく極寒なのです。水道も凍ったりします。
身体全体では気づいていないことが、カカトのひびわれたアンテナで
感じているのです。
二月三日


の続編

広辞苑によると、左にくるのは、皮、右が軍。
皮偏ならわかるけど、軍偏で変でないかー、という家人の指摘。
ウチの器械の漢字変換が、間違えているのではないだろうか。


欠食ドラネコ団2004

その名の通り、食べても食べてもクレクレを繰り返し
特に、冷蔵庫を開けると、牛乳クレーとうるさく鳴き、よく飲む。
しかし、いまや、スミレやウズラの名は、流行らなく、鈴尾だけが
最初からの名前。ウズラは、息子によって「ポヨ太」と呼ばれ、
「そーいうショボイ名前で呼ぶんじゃないよ」と言っていた私も
とーとー「ポヨ太」と普通に呼んでいるし、スミレは息子によって
真っ黒の猫だから、スス子「煤子」と呼ばれ、これまたヒットした。
ところでこの3匹の中にいろんなものをクワエテ運ぶという癖のあるヤツがいる。鈴尾だ。
ゴミバコから、カラ箱を引っ張り出して、転がして遊ぶ。生ゴミ積め込んだ
牛乳パックを穿り出して、アサリをかじって運ぶ。二階の仕事部屋に
試しに入れてみてネットをやっていたら、下から家人が上がってきて、「だめじゃないの
仕事部屋の戸を開けておいちゃ」。なんと、仕事場のヒーターの前に
置いておいた絵筆たちのうちの、一番でかい絵筆を、妻が持っている。
「鈴尾が、階段をカタンカタンとクワエテ引っ張って降りて来たのよ」
うー、こんなにお運びする猫は、オージ以来でないか。
白猫オージはぞうきんをよくクワエテ歩いていたが、鈴尾もまた運搬好きな
赤猫宅急便屋である。


二月・音無

風呂猫版のカレンダーを作るとき、各月にアタゴオル界の呼び名を
という要請のもと、二月は音無となった。
音の無い世界。その原因は、音を吸音してしまう雪によるものだ。
やわらかな雪がたっぷり降ったあとなど、ほんとうに静かな
しいんんんんんんとした夜がある。雪国の人たちは
あの静寂を、知っているんだ。


「バルター・シュピース伝 バリ、夢の景色」坂野徳隆・文遊社刊

バリ島に何度か行ったが、あの島には、ガムラン音楽という非常に
複雑な民族楽器集団のライブがあり、ケチャというこれまた
集団がだんだんトランス状態になっていく独特の合唱ダンスがある。
そして、バリ美術として、森や鳥たちと神々が描かれたプリミティプにして
細密なる絵がある。私はこれらに魅了されたが、あるとき変なことを聞いた。
「ケチャやガムランや絵画は、もともと、いまのような形で存在したのではなく
ひとりの男によって、演出されたのだ」と。それを聞いて、なーんだ
民族的に昔から、バリの民がやってきたものではないのか、とガッカリしたが
当然のように、その男は誰だという興味は湧いた。
そして九十年前後に出た原始的楽園的美術書のなかで、その男の絵に出会う。
バリの美術で現地の匂いのする絵はいくつも見て、どうしても集団で
台本を映している絵は好きになれなかったのだが、その大元になった男の絵は
凄かった。メチャメチャ私の好みだった。彼の名は、バルター・シュピース。
T895年、ロシア生まれのドイツ人。
さて、この男の分厚い本が出た。私の初期の本みたいに厚い。
しかも値段が五千八百円。高いなーと思いつつ、なかにはほとんど幻の彼の絵画が
大量にのっている。ということで購入して、やっとこゴッホの日々も終わったのでと
読み出したら、面白い。才能ある人の旅は凄いという連続。
この人、まずピアノの名手だったので、ガムランに魅了されて、それを採譜していく。
当時オランダの植民地だったインドネシア。彼はヨーロッパの文明を嫌悪し
植民地の白人たちの差別態度にうんざりし、現地のひとのなかに入っていく。
博物学にも興味があり、いろんな植物や昆虫をスケッチするが、その絵が
もおおおおお、まいったっつーくらいイイ絵なのだ。
あとは詳しくは書かないが、チャーリーチャップリンが日本来日する船旅の途中
バリに来て、シュピースと行動をともにして、高額で彼の絵を買っている。
さて、こうして亜細亜が日本の戦争によって戦場化するなか、バリのドイツ人は
ドイツ対オランダの戦争によって敵国人となり逮捕拘置されるのだが、
かれを乗せた船がセイロン島へ移動の途中、日本軍機によって撃沈され
四十六歳で、その生涯を終える。結果的には日本人によって殺されるという展開も衝撃だ。
彼がもしも、生き延びていたら 戦後のバリでどんな作品を残していったのだろう。
バリは、神々の住む島、などどいうコピーにのって行き、モノ売りのしつこさに
ウンザリしたものだが、今度行くときは、シュピースの気配を尋ねに行こう。


舐める
子供のころ、マツノ婆ちゃんが、新聞を
めくったりするとき、指をペロッと舐めていた。
なんで、舐めるのだろう。どうやら
皮膚が老化して、乾いているので、ツルツルして
紙が滑ってしまうのだった。
最近、あれれ、無意識のうち、なにやってんだオレ
指ペロッと舐めてるぞ。


むずりかど

なでら山散策日記に、この言葉が出ていたので
懐かしくなった。あれは家人と結婚したての頃
初めて米沢に連れていったとき、ふたりで別々の自転車に乗って
走っているうち、「そこ、左さ、むずって」とオレが言ったら
「へえ、何」と来たから、「むずんなだ」となり
「むずるって、何ー」と問答は続き、「ああ、ムズルってーのはな、曲がるのだよ」と
フルサトに来て、思わず地元の言葉が湧いている自分がいたのだった。
あれから、三十年。もう米沢では「むずる」なんて言ってる人も白木さん以外
いなぐなったんだべが。では、望郷の念から、「焚き火の唄」歌います。
「垣根の垣根の、むずり角ー、焚き火だ焚き火だ、落ち葉焚き
あーたっぺが、あたっぺずー、北風ぴーぷー吹いているう」
朝の七時に何やってんだべ、早く゛寝んなねなだ。
いやあ、ゴッホの仕事終えた゛もんで、はっちゃげでんなだっこいいい。


始まりはいつも一年生

フットボールをヒモで吊るして、持ち歩きながら
ポンポン蹴って歩いていく。これは小学生の姿なら
いざしらずイイ年した奴のやることか。否
始まりは、いつも一年生なのだ。
一月一日の朝の道。


大物
ディランの海賊盤、バルセロナで買って聞いてなかった奴を
発見。聞いたら、ミックジャガーと「ライカローリングストーン」
歌っていた。で、ミックはチャンと歌ってキチンとパープ吹いているのに、
ディランは小節を間違えて、バックの演奏を無視して唄っている。
自分の曲なのに・・・凄すぎる。


サイン本
ヤフー・オークションの「ますむらひろし」のところに
アタゴオルのサイン本が定価の3倍で出ていた。
私は、ブックス・エンドウさんで売っている本にサインしているし
都内の本屋でも、サイン本が多少売っているだろう。
しかし、こうしたサイン行為が、値段にはねかえっているのは
ちっとも嬉しくない。実に、気分の悪い行為。
サインをした気持ちを銭にする者。
心有る人は、決して、こういう行為に関わらないで欲しい。


蟻塚の宇宙

テレビで、蟻塚が、夜の闇のなかで輝くのをやっていた。
ブラジルの草原に、赤い土で出来た蟻塚が無数に点在していた。
九月のあたりになると、夜の野原の、その蟻塚が
緑色の点々で星のように輝き、夜空では星が輝き、なんとも不思議な
光景になっている。この緑の輝きの正体は、蟻ではなく
その塚に住みついてる「コメツキ虫」が輝いて、羽根蟻を
光りでおびき寄せて食べているのだった。
それにしても、自然は不思議、一度見てみたい風景です。


恐ろしい何か

表現につきまとう、技術・基礎の大切さと
その外側にある「恐ろしい何か」。ゴッホはここを
見ぬいていた。そして勤勉なる者は、生涯を
技術の鍛錬に費やすのだが、技術は、その
恐ろしい何かとは、無縁なのだ。


シェー型キック
キックの練習をしていたら、腕を動かしてバランスを取るところから
突然、シェーのポーズをやってキックしてみた。
シェーとは、赤塚不二夫さんの作品「おそ松くん」のイヤミが
やったポーズ。右足で立つって左足を曲げる。その時
左手を上げて右腕はL型に折る。このポーズは六三年前後の
日本のガキドモの写真に、みーんな写っているほどの
大ヒットをしたポーズだが、当時フットボールが
はやっていなかったから、このポーズでシュートやキックを
する奴はいなかったのだなあと、シェー型キックなどを
いまごろやっている奴つーのも、根深いシェーの凄味だわなあ。
キックした時に、歯を出す感じの顔などして、イヤミ型顔をしたりして
こんなキックでゴールされたら、キーパーもさぞや無念だろう。


ジョージは死んだのか
ジョージ・ハリスンの命日、十一月二十九日午後一時・ロス時間。
あれから三年たった夜、車を走らせながら、ジョージの最後のアルバムを
聞いていた。そして、「なんだ、生きているじゃないか」と思った。
唄のなかでギターの音のなかで、間違いなく
永久に生きているのだ。
作品とは凄いものだ。産み出されたものは、確かに分身なんだ。


めんごい
米沢弁で、「かわいい」を「メンゴイ」と言う。
子供が生まれ、
「めんごい、めんごい」と言っていた。
「かわいい」では、感情が入らないのだ。
言葉には、意味だけではなく、感情も乗っているのだ。
「とーちゃん、メンゴイってナンダ」と怪訝な顔されて
「かわいーっつうことだよ」と返事したものだ。


寝物語・芳一編
子供が生まれ、大きくなるとやがて寝る時間になっても寝ないので
添い寝して何かお話をしてやろうなどと思う。
そこで、絵本などを読んでやったりすると、実に面白くない話だったりする。
しょうがないので物語を勝手に変えて、
口からでまかせでいったら、そっちのほうが受けたので
翌日から、適当に話しをするようになった。
怖い話のほうが、子供がビビルので、「耳無し芳一」なんかをやった。
しかし、子供に「びわ法師」などと言っても、「何それ」などといわれるので
「びわという、昔のギターを持ってな」などと言いながら、芳一の話をして
シッカリ受けた。「お経ってなあに」と娘に質問されたりしながら、
こうして翌日も、芳一の話。そして翌日も、つーと、子供は「またか」と言う。
ふえふえ、子供が飽きているころには、チャーンとこちらも荒業を
用意していたのだ。そして、お経は、いつもなら忘れてしまう「耳にも
シッカリ書いたのです」ともいうと、子供たちは、オオ、それでは耳も見えないのでは
と思う。そうです、侍のバケモノの幽霊は、「ほーいち・ほーいちと呼ぶのですが
ホウイチの身体は、すっかり消えて、耳も消えて、見えません」。
「しかし、いくら身体中に、シッカリお経を書いても、たった1ヶ所、書いていない場所があったのです。
そしてバケモノはくらやみのなかに見たのです。
ポツンと、ケツの穴が浮かんでいるのを。」
すると子供は、黙って聞いていましたが、隣の部屋から、
「ギャハハハハハ」と家人の笑い声がしたのでした。
こうして、「ケツの穴無し芳一」の話は、新しく数日間のヒットとなったのです


青ひげ
子供に布団のなかで語るネタは、「オレはヒデヨシ」、「それ行けクリコの冒険」
「海賊フック」「青ひげ」「首無し校長」などだつた。
「オレはヒデヨシ」は、口から出任せでいうアタゴオルの話で
意外とイイネタになったりして、うむ、これは使えるなどと思ったりもした。
「それ行けクリコ」は、当時我が家にいたクリコという猫が、家のそばに止まっていた
宅急便の車に乗ってしまい、旅に出るよーな展開だった。毎回、口から
出任せで語るのは、なかなか勉強になったのだ。なにしろ子供に
受けるというのは、簡単なようでムズカシイ。
「海賊フック」これは、ネバーランドのフック船長のところに
たくさんの手紙が届くのを子分が読んでいると、「我が家の息子の名前のハガキ」が現れる。
そして、フック船長が期待して読ませると、ハガキにはタダ一言、「うんこ」。
子供はこれでギャハハと笑うのだが、激怒したフック船長は海賊船を
空に浮かべて、江戸川から野田市に、息子を捕まえにやってくるのだ、という
怖い話。そしてその怖い話のきわめつけは「青ひげ」。
青ひげは、我が家の近くの駅の向こう側の江戸川の土手に住んでいて
夕暮れになると、棺から起き出して、だんだん我が家の方へやってくるのだ。
そして、我が家の近くにくると、「まだ、起きている子供の匂いがする」
「うまそうな子供の匂いがする」と言うのだ。すると、子供たちは
必死で布団にもぐりこむのでした。
このフレーズは、今でも、私は、デパートなどでウルサイ子供が居たりすると、ぼそっと
「うまそうな子供の匂いがする」などと言うのです。
子供はカチカチになって 親のところへ走ります。
さて、こうした布団の千一夜の夜も、子供が小学生のある時期までで、それを過ぎると
「また、首無し校長の話かよ、いいから、コッチくんな。寝るんだから」と
追い出されてしまうようになったのです。うう、しくしく。その寂しさから
「トトあんどドス」は生まれたのでした。
はあ、大人とは、子供に育てられるのだなあ。


画一化
ブラジル代表のユニホームのデザインは
ポルトガルの代表やいくつかの国のものと
同じデザインになって、ただ色が違うだけになっている。
ナイキ製のようだが、いったい、なんでこんな画一化を
平気でやるのだろうか。その国の代表のユニホームの
デザイン。そうしたものが、パターン化されるということじだい
なんともツマラナイ。それぞれの国のデザインは
その国のビジュアルの代表なのだ。


気骨
ジャスに人生捧げた人と、飲んでいたとき
私が南米まで、フットボール見に行くと言ったら
「えっ、なんでアンタが、観客化するのか」と驚かれた。
その時、私はそこに彼の気骨を見た。
プロは、舞台には立つが、観客席には座らない。
そうした追いこみ、追い詰め方もまた、プロなのだ。

追伸つーか、連想
そーいえば、フランス大会のイングランド対アルゼンチン戦
マルセイユのスタジアムの観客席に、ミックジャガーがいて
応援しながら踊っているのだが、ステージの凛々しさはなく
一人の観客なのだ。そしてどこか不安げな顔が印象的。ベッカムは
シメオネ様の挑発にひっかかり退場し、アルゼンチンは
勝ちあがるのだった。


キング・ギドラ
「地球最大の決戦」、ゴジラ・ラドン・モスラ対キングギドラ。
この映画は、私が小学六年生のとき、米沢の「国際劇場」で見たのだが
四十年ぶりにテレビ見て、実にいい加減な台本だと呆れてしまった。
モスラの操縦器役のザッピーナツ演じる小人。ゴジラとラドンが
戦っているところにモスラが来て、怪獣同士で話し合う。
「モスラは、みんなでチカラを合わせて、ギドラと戦おう、と言っています」とピーナツ。
「でも、なんでオレタチが人間のために戦うのだと、ゴジラが言ってます」の
セリフには、笑ってしまう。そして3対Tの戦いがあるのだが、ゴジラの岩石投げや
岩石キックなど、けっこう動きがカッコイイし、ギドラは強くて恐ろしい。
だが、見終わって、どうも変なのだ。私の記憶では、
「太陽に近づきすぎたロケットが、引力圏に入ってしまい、引力にひっぱられて
太陽に突入してしまい死ぬ」というシーンがあったのだ。
「ああ、太陽に焼かれて死ぬなんて、嫌だなあ」と船員みたいに絶望したのを
覚えている。その作品にギドラは出ていたはずだ。
ということは、他にギドラが出た作品があるはずだと検索したら、
翌六五年、「怪獣大戦争」という次の作品が作られ
宇宙飛行士やX星人、そしてギドラが出ているとある。
たぶんこの作品なのだろうが、これを見たとなると自分は
中学二年生になる直前であり、そんな年になってもシビレテいたことになる。
ううむ、すべてはキングギドラの恐怖のなせる技
。この怪獣こそ、ゴジラほど強いやつはいないと思っていた私に
「上には上が居る」と、教えてくれた強さの衝撃そのものだったのだ。


苦労は買ってでもしろ
高校を出たあと、都内で牛乳配達をしながら、夜デザイン学校へ行くという
生活を始めた。牛乳屋は淡路町にあり、私の配達区域の秋葉原には、
当時大きな青果市場があった。
そのなかの店に、牛乳を配っていると、オヤジさんたちに
「ずいぶんガンバッテルなー」などと言われ、集金なんかに行くと
「ガンバレよー」などと果物もらったりして、ずいぶん親切にされた。
そうしたなかで、「若いうちは、苦労したほうがイインだ」という言葉を
何度か聞いたのだが、こちらは、こうやって生きるしかないのだからと
別に苦労とは思わなかった。しかし、秋冬の雨降りの朝に
カッパを着ての配達は、さすがにツライものではあった。
そうした生活は二年半で終わったが、そのあと、ずいぶん長いこと
夢に見るようになった。夢の中で牛乳配達をしているのだが、内容は
いつも同じ。配達する家がわからなくなって、困っているというものだった。
これが実に苦しい夢なのだ。マンガで生活するようになって、ずい゛ぶんたっても
この牛乳配達の夢をみたのだが、さすがに最近は見ない。
さて、「苦労は買ってでもしろ」という言葉を聞いていた時期は
とうにすぎて、いつのまにか、その言葉の意味が
なんとなく、体験的にジンワリとシミルようになってきた。
ヒドイ目に会う、キツイ思いをする。そうしたことを体験して
人は強くなる。打たれ強くなる。誰も望んでそうしたキツサに飛びこむ者はいないが
キツイ苦しい時間は、必ず無駄ではないことを、知らせる日を作る。
ディランも歌っている。
「えぶりばで・ますと・げっと・すとーん」


鳥ぜん亭
愛宕駅のそばの飲み屋、鳥ぜん亭は
たまーに行くところだが、ここの親父は
海賊船のコック長みたいな感じで、声はでかくて
ガタイもいい。そして人の話を聞かない。
ソバ好きで福島や山形まで食いに行くつーので
ニシモナイの冷やガケを薦めるが
ぜんぜん話し聞いていない。ジムに
朝っぱらから行っていると、ロッカーの向こうから
親父のデカイ声がする。会うと
「おお、マンガか。こんな時間に来るのか」などと
話すのだが、いつのころからか、ジムのロッカーで
会わないようになった。そして友達と酒飲んでるとき
突然「鳥ぜん亭のオッサン、死んだぞ」と言われた。
どうりで会わないわけだ。最近、店は閉鎖されて別な
看板が立ち、そうして、驚きは実感となっていく。
辛くてしょっぱいダイコンの醤油煮。もう
あれを食うことは無いのだ。突然、火が消えるように
人は消えていく。なんとも寂しいものだ。
親父さん、あの世で、三途の川の向こう岸で店開いてますか。
いつか、またそんな店で一杯飲みたいです。
合掌。


画集の色

自分の描いた絵が、印刷されると、
なんでこんな色になるんだっつーくらい、原画の色が出ない。
苦労して、微妙な色を出したのに、馬鹿な色になっていたり
くすんだり、まったく悲惨な目にあう。
こうしたことは、絵画の画集でも起こるのだが
今回、ゴッホの絵を模写しようなどと思ってしまったため
オランダのゴッホ美術館で、原画を前に模写してきます・・・
というほとの余裕はないので、画集をもとに描く。
ところが、我が家には数冊の画集があり
それらのなかの絵を見比べると、あらららら、みんな違うのだ。
たとえば「夜のカフェテラス」の黄色い光。これが
画集ひとつひとつて゛、呆れるくらい違うのだ。
高い本だから、色彩がいいかというと、そういうものではなく
技術的なもので、昔の画集がどうも酷いようだ。
こうして、5冊くらい見比べると、どれがほんとうなのか
重なった感じのものが多いところが、ホントウなんだろーと推測する。
しかし、やっぱり、原画には勝てない。
印刷物は、原画の放つ「気配」は、捕らえられないのだ。


知ること・知らないこと
絵を見るとき、その絵が
どこで描かれたか、どんな環境のなかで描かれたか
そうしたことを、まったく知らないで
マッサラな気持ちで、見る。
ほんらい、絵画と出会うというのは、そうやって始まる。
だが、その絵を描いた作家の日記や手紙を読むと
そこに込められた物語があることを知る。
そして、そうしたことを知ったことにより
その絵が、別な深みや信号を発してくる。
絵や小説は、その背景にある作者の
腹で抱えた日常の苦痛など、知らないところで
見るときに、見えているものと
作者のその腹のなかを知る、あるいは知った風に思って
見るときの、違いもまた、重要なのだ。
たとえば、ゴッホの「跳ね橋」。洗濯婦人たちと、荷馬車。
実にのどかなのだが、作者の置かれている環境をみると
どうも、切なくなってしまう。そしてそうした切なさが
やはり、絵のなかに漂っているようで、絵もまた、見る者を
試しているのだ。絵画は、鏡に成るのだ。


ピロン
ワタシは、食い物を食べると、ボロボロこぼしたり
寿司食うと、醤油をたらしたりして、よくコボス。
そこで、息子に「マスムラ・コボシ」などと呼ばれる屈辱を受けている。
深夜、飲酒の最中、ヒロシとピカソをもじると
ピロソ、ピカシになるなどとやっているうち、シは一字取ったら、ンになるから
「ピロン」とやった瞬間、脳のなかで記憶が跳ねた。
自分が親戚のケーコ姉ちゃんに「ピロン」と呼ばれたことがあったのだ。
それは、当時、テレビ番組で「ピロン王子」が出てくるドラマがあったからなのだ。
そして突然、テーマソングの切れ端が浮かんだ。
「星のお国からあ・星の国からやってきた
おーじ・ピロンを守るため・つーよく・やさしい兄弟があ」
うーむ、なんというヤツだっけがなあ。この番組名。うむむ。おお、
そんなときは。検索とやってみると、出た。
「ピロンの秘密」。なんと原作は、手塚治虫さま。
漫画があったのか。しかし記憶のなかのテレビ画像は、確か実写。そして検索で
でた画像は、まさに実写。T九六〇年だつーことは、ワタシャ小学二年生。
うーむ、見た記憶はあるが、そのころ我が家にテレビはまだ来ていなかったような・・。
それともギリギリで来ていたのか。
さあ、一九五十年前後に産まれた貴方、
ピロン王子の唄、歌えますかー。


旅の日記ノート
ゴッホのことで、九七年オランダに行った時の
旅のノートを探した。本だなのなかには、いろんな旅で記録した十冊くらいの
分厚いノートがある。なかには新聞の切り抜きや
レシート、名詞、試合のチケット、いろんなパンフレット、それらが
セロテープで貼られているので、ノートは分厚くなり
本の厚さになっている。日記としての記録のほかに
あちこちでの、スケッチが描かれている。
そのため、紙質は厚くて、たいていこうしたノートは表紙はハードカバー、
バルセロナの本やで買ったものだ。
それにしても、いろんなスケッチ。それらは、時間たっぷりかけられていて
ミケランジェロの石像の前でスケッチしたものや
バルセロナでの、デッサン教室でのスケッチ。
そしていろんな美術館での、原画の前でのスケッチ。
僕にとつて、漫画の原稿は、メタチャクチャ大切な
ものだが、これらの旅のノートも、そうした漫画原画と同等
なかには、原画以上に、尊いものがある。
旅の宝物とは、こうした「想い出の結晶」のことなんだ。
記憶は消えるが、旅の記録は、消えない。


孤独
ゴッホの手紙読んでいると、自分の昔を思い出す。
高校を出て、東京て生活するようになって、そのなかで
友達と親戚に、ずいぶんハガキを書いた。
「博、見るか」と、親戚のおばちゃんが、そうしたハガキを
ファイルしてとっていたが、イラストが描いてあったり
当時の自分の気合いがネチネチと書かれていた。
だが、こうしたハガキの山は、野田に引っ越して
ドンチャンの生活が始まると、ピタッと書かれなくなる。
ハガキを書かせる何かが消えたのだ。
孤独というやつが、ハガキを書かせていたんだ。
そうしてみると、ゴッホも、孤独だったのだと思う。
アルルでのゴッホの孤独が、手紙を書かせていたのだ。
作るということは、ひとりで、分け入っていくことなんだなあ。


親父ダジャレ・クイズ・国名編

そのT、「書籍を 少し移動する」国はと、どーこだ
そのU、「荷物のなかから、絶叫が聞こえる」国は、どーこだ
そのV「車についた傷の原因を、質問される」国は、どーこだ

そのT、本、ずらす・・・ホンジュラス
そのU、荷から、グア・・・・ニカラグア
そのV こすったりか・・・コスタリカ

まあ、こうしたものの過去を思い出すと
野田では、退屈こくとクイズに走る。
で、二十年も前に、瀬田や川津が作ったクイズを
ワタシは今も覚えている。

答えは、女優です。瀬田くん編
「麻薬やって、海のなかで、フラフラとしている人は」

すると、川津が言ったのだ。
「そんじゃよ、日本の女優でよ、谷川の水で、
枝でキンタマ洗っている女は、誰だ」
最低な設問ですが、答えも泣けます。

さあ、この二問、判るかなー。
解答は、下の方にあるよ


ちょびっと難解・ダジャレ「お寺と骨の名前」クイズ
お釈迦様が横たわっている姿の像が在り
米国ミシシッピイ川河口地帯に建つお寺。
その地下から発見された歴史的な骨の名称

もちろん、こんな名前の寺は無い。だがこの骨は現存する。
では、解答は、下の方にあるよ


ビンセント計画
ゴッホの絵と、私の世界の絵のドッキング本。
うーむ、どーするべえと、毎日思い巡らし、寝起きに読んで
眠る際にも、見たり読んだり。そんな日々を積み重ねていたら
とーとー、目覚めの夢のなかに、出てきた。
「ドラ猫団が、目覚めの最初のところで
言葉を言う。その言葉がそのまま、1ページの分量を
デーンと押さえる名言らしく、あーあー、これで3匹だから
三ページがコイツラのものか」となんだか、残念なような
しかし、その名言をしっかり覚えねばとおもいながら、
彼らの言葉が発せられるのを聞いている、」というもの。
で、肝心の名言は・・・・、砂に消えた水のような言葉。

十一月四日・朝十時半


親父ダジャレ・クイズ・いん十月

一問目・では問題です。
新潟県にあるヘンな名前の市はどこだ?

名がおかしい・・ナガオカシ、長岡市

引用クイズ
「大きな鳥なんだけど、ヘンな鳥のいる山形県の市は、どこ」・・・鶴岡市
「ざるそばの ソバの量がヘンだと、客が言う岩手県の市は、どこ」・・・盛岡市

ニ問目 では問題です
新潟県で、ブラジル人が、おもわずコンニチワと
返事する市は、どこか?・・・これはポルトガル語で「こんちは」、知ってないと
ダジャレが判らないなあ。・・・

こんにちはを、ブラジルじゃ、「ボン・ジーア」と言います
ゆえに、正解は

おん・じーあ市・・・オジヤ市だべ

んー、かつて野田の飲み屋で退屈のあまり
「答えは、都道府県名クイズ」をやっていたのさ。
ひまでよー。そんときワタシが作った問題

水が出なくて、困っている都道府県は、どこでしょー

答えは、下ーの方に書いてあるよ。


「お寺と骨の名前」クイズ

お釈迦様が横たわっている姿の像が在り・・・
涅槃・ねはん

米国ミシシッピイ川河口地帯・・・・
デルタ地帯・
デルタ

に建つお寺。
ねはん・でるた・ーる寺
ネハンデルタール寺
その地下から発見された歴史的な骨の名称
ネアンデルタール人


女優クイズ

「麻薬やって、海のなかで、フラフラとしている人は」
マリリン・もーろー。マリリン・モンロー

「そんじゃよ、日本の女優でよ、谷川の水で、
枝でキンタマ洗っている女は、誰だ」
沢タマキ


心配性あるいは、シンキタレ

朝の四時、グースカ寝ていたがさすがに九時に寝たので
目覚めてきた耳に、かすかに下の隣の部屋にあたる茶の間から
息子の話し声がする。実にかすかにだ。
平屋として建てた家を増築して二階にしたとき、一階と二階の間の
空間は、普通の家より隙間があり、人ひとり這いまわれるくらい
スペースがあるところに、防音シートも敷いたので
防音はほぼ完璧、というわけで下の気配はほとんどしない。
仕事がら、誰かが起きている時間に寝ていたり、その逆だったりの
生活なので、こうした防音は助かるのだが、
はたして、今度建つ家は、これほどの防音に成るのだろうか。
ふと、そんな心配をしてから、思う。
「ああ、おれは、つくづく心配性なのだなあ」
ヒデヨシなどというキャラクターを描くから、さぞや
能天気だと思ったら大間違い、心配性だから、あのよーなキャラに
憧れて、産み出したのだ。それでもダンダンこうした
心配性的な性格が後退し薄れてきた原因のひとつは、
ほぼ三十年にならんとする同居人のせいである。
その楽天的なナントカナルデショー的な生き方に、
オレは感動し呆れいつしか感化されて、このよーな現在に至ったからだ。
たがしかし、こうした心配性の自分を見ていると
天国でマツノさんが、「そーいうのは、心配性じゃねえ、
シンキタレつーんだよ」と入っているような気もする
シンキタレとは、米沢弁で、臆病者のこと。


水が出なくて、困っている都道府県は、どこでしょー

答えは、掘っか、井戸

勉強ソロソロ秋田県の乗りで、
「にい・ちゃん、キヨシローのソウル・ソング好き好き
にい・ガッタ・県」


臭いのは、何が匂っているのか

最近のコマーシャルで、子供が部屋で
「臭ーい、お魚の匂い」とか言う。
すると、魚焼いた匂いが、カーテンについてるんだとか
母親がうろたえて、消臭スプレーを噴く。
なんだ、このコマーシャルは。
魚焼いて、サンマの匂いの、どこが臭いのだ。
食べ物の匂いを、臭いなどとガキに言わせて
なんで、消臭するのだ。
このようなものを平気で流す感覚の、
その脳味噌こそ、ヒドイ匂いがしている


アルゼンチン・リーグ

スカパーのサッカー番組のなかから、いつのまにか
アルゼンチン・リーグの放送がなくなった。南米特有のすさまじいスタジアム風景、
リーベルやボカのスタジアムの、紙ふぶきや興奮、あれが見れなくなったのは
マコトに残念だ゛。ブンデスリーガより南米見せてけろー。それにしても
ボンボネラ、ボカのスタジアムでのリーベルとのクラシコ、
一度、生で見たい、観たい、診たい。


魚屋が静かになる夕餉

私が産まれたとき、我が家は魚屋をしていた。
生臭さや、魚の内臓や血ダラケのまな板などを見て、
物心ついたときには、魚を食うのが大嫌い。
刺身も、タコくらいしか食わない。樽いっぱいに作った塩辛なんて
気持ち悪くてタマラナイ。こうして魚嫌いな私に、家族たちは
「博、んまいから食ってみろ」とまぐろの刺身やさまざまな刺身を
勧めるのだが、こうした「食え食え」の勧めがまったく無く
モクモクと家族たちが食う夜があった。
それは、カニ。毛蟹をもくもくと食うあの静けさ。そして普段なら
食ってみろと言われるのに、ちっとも食えと言われない不思議な夜。


水あましと台風

米沢弁で、洪水のことを水あましと言う。私が子供のころ
そばの側溝があふれ、我が家の脇というか庭というか
そのへんが水ゴーゴー流れて、そのあと一面が砂利になって
魚がはねていた記憶がある。
ところで台風二十一号の軌跡を見たら、どうやら中心が米沢のあたりを
通過したような図で、なんだか嬉しくなった。米沢まで台風が元気で来ることなど
実に珍しく、子供のころ台風が近づくとワクワクしながら、結局温帯低気圧に
変わってパワーがダウンして東北を通って行くのがほとんどで、これが
なんともツマラナイ感じがした。
「ああ、でっかい台風、来ないかなあ」とそんな空見て言ったら、マツノさに
「博、馬鹿語ってんなず」と、ゴシャガッチャものだ。


ガヅラとデンバ

方言が滅び行くように、記憶のなかのハヤリモノも激しく消滅していく。
今の時代の子供たちに、メンコの話をしても、何の感動もないだろう。
遠い遠い別な世界の物語。メンコとは、丸いボール紙みたいなものに
いろんな絵、当時のハヤリのキヤラクターや野球選手や相撲取りの顔なんかが
貼られたもの。月光仮面とか七色仮面とか、少年ジェットや長嶋や川上
大鵬や柏戸の姿。これをミカン箱のうえにおいて、順番にその箱の台に
メンコを叩きつけ、下に落としたり、メンコをひっくり返したりすれば
勝ちで、相手のメンコをまきあげられるというゲームだった。
このメンコを台にパシッと打つとき、着ている服のボタンをはずして、服の
パタパタ状態を利用して、風を起こしてメンコを蹴散らすという技があった。
当然、軽いメンコは落ちる。そこでガキドモは考えた。
メンコを重くすればいい。そこでなんと、テンプラ油に浸して
本当に重くなった奴が登場した。あるいは、メンコ自体を厚くしたものが
登場した。これが米沢地方では、「ガヅラ」と呼ばれた。
まあ、このメンコというものも、米沢じゃ「ぱんぱい」と呼んでいたのだが
、分厚いメンコの登場に続いて、アホみたいに大きい奴も登場した。
これが「デンバ」と呼ばれ、当然値段も高く、もっているは、金持ち系の
オボッチャマだった。なにしろ本体がデカイので、バフッと台に落ちてくると
たいていのメンコはチリジリに蹴散らされるのだったが、そこはそれ
名人がいて、そういう巨漢のメンコもぶちのめされたりすると
ガキは泣いて帰っていくのだつたが、なにしろそーいうガキは
オボッチャマなので、泣いて帰ってしばらくすると、親がやってきて
激怒され、デンバは回収されてしまうのだった。た゜が当然のようにそのガキは
二度とみんなの台には参加できなくなるのだった。
かつて、メンコは、あらゆる通りのはじっこで、ミカン箱といっしょに
点在していた。僕らは駄菓子屋でメンコを買い、
どれ遠征に行くぞと隣町まで繰り出し、みごとにスッテンテンに
巻き上げられて帰ってくるのだった。そんな風にしながらも
僕は、ダンボール箱いっぱいのメンコを持っていた。やっぱり
古い絵のものは、なんとなく風格があり、大事にしていた。
やがて、メンコは下火になり、自分もそういうことを
卒業したような気になり、ある朝、早起きしてダンボール箱を抱え、割出町を
でででと行き、通りにメンコをぶちまけて、卒業とした。
そしてメンコは、誰かに拾われて、きれいさっぱり消えていった。
ビートルズのハードデズナイトが聞こえてくる、そのまえの季節のことだった。


グスコーブドリの火山局

ネットであちこちの火山のライブが見られる。火山好きには
なんと贅沢なことだ。生きてる火山を生で覗けるなんて。
賢治の「クスコーブトリの伝記」のなかで、いろんな火山の
情報が瞬時に集まる器械を火山局が持っているという描写があり
それをマンガに描いているとき、なんだか夢のような話だなあと
憧れたものだが、自宅にいながら、ブドリの火山局気分を
味わえるようになったのだ。嬉しいなあ。


アウェイ

海外にフットボール観戦に行き、大好きなチームが
アゥエイ状態の試合。ここでユニホームを着るのが危険な場合と
間違っても着てはいけない場合と、そんな試合をいくつか体験した。
アゥイで敵のチームのユニホームを着るなんて、あまりに危険で
現地の人がヤラナイ行為なのだと知るようになって、やかで中田がセリエに移籍したあと
しばらくして彼のコメントが印象的だった。
「どうして、みんなアゥイに行くと、萎縮するんだろう。」
日本の平和な試合を体験してきた彼には、アウェイ概念が無かったのだ。
ジェイリーグの試合において、アゥエイの恐怖なんか無いから、
柏サポーターのゴール前で、藤本などという男がゴールしたあと
平気で阿波踊りを踊ったりするのだ。無神経きわまりない。
あれから数年たったが、中田は今も、アゥイで選手が萎縮することを
不思議に思っているのだろうか。


スイング・ガールズ余波

茨城・岩井の映画館で、ほぼ満席のなかで見てから数日、
なにか消えない残骸のように、甘味な余波が残っている。
高校時代なんて、もう三十五年も昔のことなのに
あのころの空気のなごりが、インチキ東北弁のむこうから
たくさんのタフな女子高生のなかから、流れてきた。
男子はミンナ情けなく描かれ、女子はみんな強かった。
そして、俺のなかの高校生のカケラ因子に、あの主役の子がジンワリと残った。
そーか、アノ子は、「オチャラ」なのだ。
ちばてつや様がマガジンに連載した懐かしの「石田国松」。
そこに出てくるキカン気な女の子が、オチャラ。
ふーむなるほど、フー子もツキミ姫もテマリも、そーか・・
みんな、オチャラ派なのだ。

九月24日


ポンペイの滅び方

数日前、テレビで「ポンペイ」を2時間やっていた。イタリア・ナポリ湾のそばにある
ベスビオ山が西暦七九年八月24日、噴火を起こし、十九時間でポンペイは滅んだ。
その滅びの原因が、火砕流によるものだ的な画像で表され、なるほど
町をあの噴煙たちが押し寄せてしまったのか、と一瞬納得しつつ
アレレという疑問もあった。それは火砕流の高温。詳しい温度は調べていないが
「七百度」とか聞いた記憶がある。この七百度レベルで人がまき混まれたら、
人体はどうなるのだろう。
人体の水分は抜けて、まともな人体の身体が、残るのだろうか。
僕には、そこには人の燻製のような妙な形のものが在るような気がするのだが・・。
しかし、ポンペイから発掘された人体の骨の回りには「空洞」が゜あり
そこに石膏を流し込んで、被災者たちの姿が出現したのだ。
ということは、七百度規模の高温よりは、低いものではないだろうかという疑問が
チラついていた。この番組のなかで「火砕流」という言葉のほかに
「火砕サージ」という言葉が流れていた。さて、数日して回ってきたメール。
そこには、この番組を見た火山研究家の言葉があり、
「番組は、火砕流と火砕サージを混同してした。ポンペイは火砕流によるものではなく
火砕サージ。火砕流本体を浴びた他の町は、溶けてしまい発掘を困難にさせている」とある。
ということは、火砕サージとは 「低温の火砕流」ということなのだろうか。
ふーむ、ふむふむふむ。


太陽が地球を回っている

小学生高学年の半数近くが、こう解答したと本日の天文学大会での発表。
でもこれって、授業で知識を学習させたか否かの話では終わらない。
それは「知識と感覚」の関係に関わっているのだ。東の空に「昇る」西に「沈む」。
これを目撃した感覚からは、太陽が移動している風に感じるわけで
私が学校で、あるいは大人から{地球が太陽を回っている」と言われたとき
驚きとともに「納得できない」感覚があった。知識を与えられても
ズレを感じる。だがこのズレこそ、一種尊い感覚なのだと思う。
「月がどうして満月になったり三日月になったりするか」という設問に
次のような解答があったという。
「いろんな形の月があるから」。
なんだか、嬉しくなる。足穂さんも拍手しているだろう。


浅間とベスビオ
昨日九月十七日の日没のあとの、浅間ライブ画像は群馬県側からのものが
特に美しかった。その原因は、満月のせいだ。山並みが真っ黒。そこに火煙の
赤。そして夜空に月が浮かぶことによって白が現れる。この白色の月とそのまわりの
ボンヤリとした薄墨的なグラデーションによって、山並みの黒や噴煙の赤が一段と際立ってくる。
この画像をみながら、僕は数年前、大英博物館でみた特別展の絵画を
思い出していた。それは火山大好きな伯爵が、イタリアのナポリのベスビオ山の
噴火を見に行き、画家にその噴火のさまをたくさん描かせたもの。そこには
夜の火山の噴火とお月様と海が描かれ、まさに「火山の放つ美しさ」の部分が
シッカリとらえられていた。だが普通こうした展覧会だと、スケッチなどしていいし、
許可されているものだが、なぜかその展覧会は不許可。しかし
こんなにスバラシイ絵をスケッチしないでなるものかと、僕は見つからないように
スケッチしだしたのだが、警備の親父にしっかりマークされ叱られ、
それでもまたスケッチして、おんだされそーになったものだ。
しかし、火山の美しさの前では、捕まってもスケッチしたい、つーくらい作品たちは
あまりに美しかった。


禁煙嫌煙の流れ
1日3箱セブンスターだった私が禁煙してまもなく三年。
夢の中でタバコを吸うことすら無くなったが、世界中で
喫煙にたいしての厳しさが年々ひどくなっていると思う。
そんななかで、しばらく前おかしなニュースをきいた。それは
ビートルズのアルバム「アビーロード」のジャケットの横断歩道を渡る
ポールの指にはさんだタバコ。
これをジャケット画像から「消してしまうべきだ」という抗議が起こって
消してしまう的な話が流れた、という奴だ。
あまりに馬鹿げている。写真画像という作品にたいしての冒涜。
嫌煙運動もここまでくると、魔女裁判のようで、過去の暴挙は
形を変えて未来に起こるという証明のようだ。
さあ、ヤニパンツ君は、粉雪亭でいつまでタバコが吸えるか。


いさばや
米沢の高畠あたりの、なつかしい気配と対峙して
ビックラこいている蓮華丸くんのHP「アタゴオル倶楽部」を
みていたら、「えさばや」という言葉の意味について、
絶対判らないべなと、あった。
「えさばや」は、「い」と「え」が曖昧になる方言特有のいいまわしで
実際のとこは「いさばや」である。
私が、こどもの頃、「おめんどこの仕事、何」と聞かれて
「魚屋」と答えると、「なーに、えさばや があ」と言われたりしたものだ。
まあ、当時でも、魚屋を「えさばや」と呼ぶのは、
年寄りが多く、そうした年寄りとお茶飲んだりしている孫とか信濃町の
自転車屋の息子とか、そーいう人しか言わない。
さて、この「えさばや」ならぬ「いさばや」の語源は何んだろう。
そこで、魚関係の言葉を考えたとき、
「いさり火」という言葉が浮かぶ。この「いさり火」を変換させると
「漁り火」「漁火」とでる。遠い昔から「魚屋」は在っただろうが
そうした生業を、「イサバ・屋」と、昔は呼んでいたのではないだろうか。

「米沢方言辞典」には 「いさば」魚屋で売られる魚。全国的には「いさば」船を
いうところが多いことから、船荷となった魚のことをいうらしい。とある。


オリンピックを見ていたら

ぼーっとオリンピックを見ていたら、中学生の時、足が速いわけでもないのに
何で陸上部なんかに入ったのか、ボンヤリ思い出した。
それは前年の秋、小六年の時に東京オリンピックがあったせいだ。
私が感動したのは、ボブ・ヘイズの黒い弾丸百メートルと
ビキラ・アベベの静かな涼しげなマラソンの勝利。
こうした走る美しさとカッコ良さにあこがれて、陸上部に入ったが、一月後
三年生に、短距離の足止めの位置を、設置させられ、
「あっ、オレ、左が前だった」などと言われ、直すと
今度は「やっぱり右が前だ」などと、おちょくられた瞬間、
ぶちきれて、陸上部をやめた。体育系特有の
先輩が威張る世界に、絶える根性など無い私にとって
美術クラブは、のどかで、集団的でなくて、住みやすかった。
すでに、あの時から、我が身の未来は、組織の中にはなかったのだ。


のりしろ

子供と家人と三人で十六号を走っているとき
工作の話になった。「工作といえば、あの「のりしろ」って
命令的な言い方で、嫌だよなあ、せめて、「のり・して」とか
「のり・してください」とか、言えばいいのに、」と言ったら
「親父、何わけのわかんないこと言ってるんだ。」
「貴方、それ、本気で言ってるの」と家人はまじめに言うし、
「のりしろ」って、のりをつける部分という意味なんだよと
言われても、だいたいあーいうのにふれていたころは
子供だったからよー、「大人って高圧的な
態度で困るなー」と、オレは子供ながらにムッとしていたのさ。


座席
鹿島対バルサの自由席に座っていた。前の列に、通路側に一つ空きがあり
そこから五人の男たちが座っていた。そしてその次に一個空席があり
あとはギッシリ座っていた。すると階段をのぼってきた娘が二名立ち止まり、
前列の通路そばに座っている男に、当然のような口調で
「みんな、一個づつ、ズレでください」と言うのだ。
「すいませんが」の一言もなく、「一個づつズレでよ」てな感じ。
言われた若者の男、さすがに「何いってんだあ」という感じで返事もしないで
そのネーチャンを見ていた。すると、娘は涼しそーな顔で上のほうへ登っていった。


ラッコ
国営放送でラッコの生態をやっていたら、なんとヤツラは
ウニやアワビやカニを食いまくっている。コラー、なんて美食なんだー
貴様らが繁殖したらウニが無くなるじゃないかと、画面に向って
怒っていたが、はて、そーかと思い、ワタクシ決めました。
来世で再び生まれ変わったら、断然ラッコになります。
いいなあ、ウニカニ食い放題。そして、替え唄も歌います。
サイモンあんどガーファンクルの曲で「アイ・アム・あ・ラッコ」


ぱさぽるて

ジョンのパスポートの中身が公開されているようだが、このまえにムセオ・デ・レノンに
行ったとき、顔写真のとこを見た瞬間、ドキッとした。ジョンのデビュー前の顔なのだが、
変なのだ。ブライアンエプスタインのフィルターを通して、
「公開していい写真顔」となった顔ではなく、彼のまぎれもなく「心の一面」が湧き出した顔が
映し出されている。そこに写っているのは、リバプールのテテ゛ィ・ボーイであり、
実にチンピラ風であり、貧しさと弱さ、両親を失って育った男のコンプレックスが浮き出している。


火葬場ともく焼き場

米沢の市役所がたっているあたりは、昔はタンボで、そのわきの土手には
火葬場とモク焼き場が並んで建っていた。私の住んでいた割出町は、
町の外れで、その裏に火葬場が見えていたが、昔は夕暮れになると
「火の用心」を連呼して通りをあるく子供たちの行進がアチコチであつた。
で、私の町の行進は橋から坂を登って松川橋を渡らず左に折れて土手をいき、やがてモク焼き場の
下の道をおりて、火葬場の入り口で終わるのだ。それから、こどもたちは
ゴム段とかして、みんなで遊ぶのだが夕暮れがせまり、だんだんみんな帰っていき
いよいよ、暗くなってきたからと、残りの面子で帰ろうとして、モク焼き場の下を通ると
丁度頭上に、ゴミを運ぶ鉄の橋があり、その下をくぐるころは、
シーンとしているのと、黒い鉄のシルエットが薄気味悪くて、相当、おっかなかった。
まるで、怪人二十面相の物語に連なっているような恐怖。
火葬場には、同級生の友達がいて、小学生のころは、よく遊びにいくと、焼いている最中で
なんとも重苦しい遺族たちのわきを通って部屋にいったりしていた。
不思議なもので、そばにいると、くりかえされる風景になれて、死者のガンバコすなわち
棺が荷台車でシズシズと運ばれていくのも、ただの年中行事にずぎなかった。
そうして棺が近づくと子供たちは「親指・隠せ」と言い合うのだった。親指は親の象徴であり
隠さないと、親が死ぬというのだったが、私もキッチリと親指を握りこぶしの内側に入れていた。
一度、おめしま怒られてむかついたときに葬儀が来たので、親指を隠さないでみたのだ。
やがて怒りが静まっていくと、罪悪感があふれてきて、死んだらどうしようという
恐怖感もわいて、数日間まったく不安な思いをした。
それにしても、夏のラジオ体操も、火葬場の前庭で
やっていたんだから、実に、すがすがしい朝でありましたなー。


ブドリの生原稿

七月二十日の「なんでも鑑定団」に賢治の生原稿と名刺が登場した。
「グスコーブドリの伝記」の、沼畑の後半、「クーボー博士の本のことが登場する個所」。
依頼人は、父親が戦前に、清六さんからいただいたとのこと。
しかし不思議なのは、ブドリの原稿の一部がそんな風に欠落して
弟さんが本文の一部をあげる、というところがわからない。
差し上げた原稿と同じ内容のが、清書かなんかしてもう一枚あるとでもいうのだろうか。
さて、生原稿一枚の評価額やいかに。
ガシャャャャャ。ジャーン。ニ百万円。高いか安いか。もしもオークションにかけたら
果たして、ニ百万円で終わるのか。本文が八十枚くらいあって、単純に二百万かけたら
一億六千万。高いのか安いのか。名刺はなにやらハンコの印もあって、ニ十万円。
しかし、賢治という人が金銭人生への埋没を侮蔑して生きて見せたのに、
こうして金銭概念が追ってくるのも、地獄への競争なのでしょーか。


クラクラ光線
カルピスのコマーシャルで、ウルフルズ゜のトータス松本氏が
父親役をやり、子供と写真を撮るシーンで、娘に投げキッスをされ
クラクラになって写真がカシャシャとなる場面みながら、
私も、懐かしいクラクラだと思う。娘の小さいころは、ほんとーに
可愛いもので、クラクラ光線を何度も浴びたものです。うー。


ビートルズ来日騒動とワールド杯

一九六六年、私が中学二年の時、ビートルズが来日した。
その時の日本の騒ぎのことをまとめた本を読んでいると
警察の警備が六千人も動員されて、過剰な警備だったことがわかる。
読んでいるうち、二年前のワールド杯を思い出した。
「なーんだ、三十年以上経ってもこの国は、なんの意識も変わっていないんた゜なあ」
九四のアメリカ大会でも、九八のフランス大会でも、会場は
お祭りであって、警備なんてしれたものだった。試合が終わっても、
あちこちの芝生では、ダラダラと試合後の余韻でたむろっているヤカラが
たくさんいたし、それをどうこう言うものではなかった。しかし日本での
異常なまでの「管理された警備」には、呆れるというよりも
腹立たしく、それはあまりにウットウシイやりかただった。
試合終わってもとの道を戻ろうとすると、バリケードを作り
「こちらからの帰宅はゆるされません、迂回してナニナニ駅へ行ってください」とか
ギュウギュウつめの小さい通路を作り、そこを歩かせながら
「立ち止まらずに進んでください」とガンガンがなるアナウンス。まったく
なにゆえこんなに、管理したがるのだろう。試合さえ見たら、とっとと帰れ的な
会場の無味乾燥さ。楽しい祭りの祭典なのにその余韻を楽しみたいのに
あちこちやかましく続ける帰宅へのアナウンス、通路を規制して板バリの道を作ったりと
まったく、余韻もなにもあったもんじゃない。しかしいったい何ゆえ、
こんな馬鹿げた警備を繰り返すのだろう。それってひょっとして
「事故が起こっては大変だ、万全の警備をしよう」と考えてのことなのかもしれないが
その考えの奥にあるのは、「大会を成功させよう」とする気持ち、
すなわち「失敗しては、恥だ」という、「恥の文化」が湧き出してきたのではないだろうか。
確かに、「フーリガンが来るフーリガンが来る」と狼少年みたいなマスコミに
踊らされて、シャッターしめていた札幌の町のように、無責任な前評判は
どんなイベントにもついてまわるだろう。そして怪我人もなく大会が終わることは
成功かもしれない。だが、こんなに規制しての、息苦しい大会、こんな馬鹿げた警備の
大会しかできない日本での開催など、二度とやってほしくないし、あんなに楽しい時間を
楽しさをしらない人たちのお祭りにしてしまっていることこそ、恥じるべきだ。


長命・短命

長命組 クシロ、クリコ、イリ
短命組 ハナコ六年・毒物か チビコウ・病気、スーケル四年交通事故

クシロは二十年くらい生きてたから、歯はみんな無くなり、最後は
よれよれになってもトイレに行こうとする姿は、胸にジンときた。クリコもイリも
大往生だったのに、ちかごろのメンバーは、トラブルによる短命が多い。
九八年、我が家の増築のさい、シロアリ防止のための砒素を
どこかで付着してしまい、と推定するのだが、当時クラちゃん、チュータが死亡。
ブイブイも行方不明、たぶん死亡と、あっというまに3匹が消えてしまい、
くやしいので、3匹新しくもらった。それがフー・ラン・スーこと
フータ、ハナコ、スーケルだった。今回のハナコの死去で、生き残っているのは
フータだけになった。そのあとにやってきたのが、
林のなかで娘に拾われたチラベとモミジ。昔、ここが林だったころは
みんな長命だったのに、都市化してきたら、事故が多い。
どうか、命をまっとうして欲しい。


左利き用ギター

もしも、ポールマッカートニーが右利きだったら、
僕はいまごろ、右でギターを弾いていただろう。彼の左で弾く姿は
小学生の僕を驚かせた。だれも左で弾いている人など当時の日本には
居なかったのだから。その奇妙さに感動し、僕が
ものを投げたりするのが、左なところから、もともと
左ききなのに、おばあちゃんに怒られて右にしているという
中途半端な左利きであることを理由に、これは
左で弾こうと、決めたのだった。
ずいぶん歳月がたち、あちらこちらで左利きの人が
ギッチョでギター弾いているのを見るようになったが、そんなとき
ジプシーキングスの3人の左利きのうちのひとりが
右のギターのままで、弾いているのを見た。
僕も、右のギターを左で弾くことはできるが、自分のギターは
左用になっていて、弦を上下逆に張り替えている。
だが、そんなギターはちまたにそうあるわけないので、
どこかで弾こうとすると、右のやつしかないから、自然と
それを左スタイルでもって、コードを逆さにして弾くことになる。
数日前、松崎茂という歌手が左でギターを弾いていた。
この人がギッチョなのは前にもみたが、よくみると
あれれれ、右のギターを弾いているのだ。
なんと、弦を張り替えず。そして、思った。
そーか、最初から、左のギターなんかにしないで、右のギターのまま
この手でいけば、いろんなタイプのギターが買えたし、
あらゆるギターを、普通に弾けたのだなあ。


成長とは、立ち去っていくことだ

トトドス族の言葉より

解説・大掃除してたら、子供たちが4歳と2歳くらいの時の写真が
ゴソっと出できた。それは正月、息子がお姉ちゃんの着物を見て
自分も着たがって、赤い浴衣を着て二人で写っているものだった。
十五年も昔の、いとおしい時間がそこにはある。欧州選手権決勝を見て
朝に寝たので、十時に起きて娘を車で駅まで送れるかどうか
約束できないよと前日の夜言っていた私は、十時に目覚め
いそいで、下に降りていくと、もう誰も居なかった。
脳裏に、あの写真があり、そして、現実のガランとした空間を見たとき、
そんな風に思い、やっぱり少し切なくなった。


鵜呑み
「葬り去られた真実・日航ジャンボ機墜落事故の疑惑」
宮村浩高著・青心社。
一九八五年の夏、八月十二日、日航ジャンボ機が、羽田から大阪に向って飛び
やがて行方不明になる。私は、このニュースがテレビで
突然テロップとして流れた番組を今も覚えている。「クイズ百人に聞きました」だ。
その行方不明という文章に、「あらら、助かんないな」と思った。
そして、その後のニュースでも、海上の捜索が始まったと報じたように思う。
ところが、しばらくしてから、山中に落ちたという情報に変わるのだが、
その場所が特定できないでいるのだ。そして、この夜、私は一晩中原稿を
描いていたので、夜明けになって、テレビが特版として空から現場を映したす画像に
驚いたものだ。
だが、こうして夜明けになっても、なんと自衛隊も県警も、誰一人現場にたどり着いては
いなかったということが、この本には書かれている。
朝日新聞のヘリコプターが、事件からニ時間後に、現場を発見し、その位置を知らせると
それは、群馬県の場所なのに、自衛隊が知らせた公式な位置は、長野県の別な場所。
地上の人たちは、そこをめざして、なんでもない場所を探し、墜落後、
おおくの人がまだ生きている現場は、放置され続けた。
勝手に、山に入ってはイカン、命令があるまでと、群馬県でも、警察が道路を封鎖して
だれも近づけないようなところを、それでも探しに行った人たちが現場にくると、
そこで、自衛隊の一部が不思議な行動をしているのを見る。
実に、こうしたことが事実なら、あの事故は隔壁の疲労による破断から起こったのではなく、
そして、なにゆえ、垂直尾翼のほとんどが無いか、という謎も、実に寒気のするような
真実が隠されている、ということを漂わせている。
当時の記憶でも、なんで現場が海上とばかり思っていたら、突然、ぜんぜん違う場所の
山中になり、しかも、それすら、いつまでも特定できないのか、という不思議さの正体が
ここに、ひとつの解答として描かれている。
それにしても、この本のなかで、マスコミは、ただ発表を鵜呑みにして、調べようとはしない
という点、実は、そんなことはマスコミにかぎったことではなく、
賢治研究界もまた、鵜呑みの世界でもあるということを、自分が痛感したところから
この「鵜呑み」の恐怖を、見せ付けられているのだ。
まあそういう点で、あらゆるものを疑うという意味で、この本もまた、その対称でもあるが
実に、一気で読める本です。 七月三日


マッサン

野田の面々は私のことをマッサンと呼びます。
最近、気に入って聞いているCDキンクスの「ムスエル・ヒルビリーズ」の
一曲目「二十世紀センチュリー・マン」。途中でアイリッシュ風の
コーラスになるとこがイイのだが、この曲のなかで、レイデービスも
私を「マッサン」と呼んでいるのです。


クイズ

最近、子供の頃はやったクイズを思い出した。
「目が三つ・手がひとつ・足が六本、これなーんだ」

解答
「丹下左善が馬に乗っている」ところ。

注釈。丹下左善は、片目で片腕、足2本。そこに馬の目玉と足4本たす。
子供の頃の懐かしいクイズを、最近これがテレビで再演されてるのを知って
思い出したのであります。


嘆きの顔

欧州選手権の最中だ。試合の後半、終わりに近づくにつれ
スタジアムの顔たちのなかに、嘆きや不安でいっぱいの表情が現れる。
スペイン人も、イタリア人も、ドイツ人も、みんな負ける直前の顔は
そうした悲しみいっぱいの瞳をしている。
嘆きは人種を超え、同じ悲しみの形をしている。
九四年ニューヨークのホテルで、ドイツ人たちの
そうした呆然とした嘆きの顔を見た。同じホテルに泊まって
意気揚揚とジャイアンツ・スタジアムに行き、ブルガリアを
ぶちのめすはずが、ストイチコフ様一家にボコボコにされて
ドイツはアメリカ大会から敗退した。その夕暮れの嘆きの顔。
今、ポルトガルのスタジアムに、それと同じ顔が咲く。
悲しみもまた、フチボール。いつかくる喜びを待つための嘆きの日。


ナットウキナーゼ

血栓を溶かす唯一の物質、納豆に含まれている
ナットウキナーゼ。これを増やす方法は、納豆を
包丁で微塵きりして、ラップに包んで、ラップに空気穴を
開けて、八時間くらい常温のなかに置く。


教育熱心な

福岡の高校で、居眠りしていた生徒に、切れた教師が
カッターナイフ渡して、血の血判状みたいなことをシロと
言って、そのまま放置したら、生徒がしようがなくて、手を切って
血文字を書いていた。などどいう事件。
こうした、クサレ教師が出で来ると、報道は
決まりきった常套単語を持ち出し文章を書く。
「その、教師は、教育熱心で」。
何が、教育熱心だ。まったく。教師は生徒に
一方的に命令できるようなシステムのなかに、あぐらをかいて
腐った王様の真似をしているだけなのだ。
四十年もたつというのに、中学時代の体育教師の担任に
したいよーにされたあの一年間の体験は、今だって腹が立つ。
あの一年間で教師なんてものは、この世で一番嫌な職業と、思った。
教室という名の王国の、生徒は奴隷にされてしまうんだ。
教育熱心なんていうのは、徹底的な弾圧の言い換えなんだ。


意味不明曲

子供のころから、歌わされた歌のなかには
意味なんかワカランのが多いから、子供なりに意味づけていく。
「君が代」なんかは、
「君がーあよーをわあ、
千代に、や千代に」
ここで、すでに、千代とは何か、と子供の私の脳が検索して出した意味は
チヨといえば「島倉千代子」。だから、「千代に、やあ、千代に」と
島倉千代子が2度もうろつきだし、
「さざれー、石の、岩雄となーりて」
これなんか、さざれー、がなんだか判らないのだが、
「石野岩雄、というものに誰かが成った」とおもい、
「こーけーのー、ムースう、まああで」。これも
なんだか、ワカランのだが、アラスカの獣のなかに
ムースという奴がいると知ったとき、なんとなく
キミガヨを思い出したりしたものだ。
で、大人に成ってシバラクしてから、あるとき
なんだ、そーだったのかあ、とヒドク飽きれた曲は
「諸人、こぞりて」だ。
「モーロービトー、こぞーりてー」という歌詞ではじまる
クリスマスの頃のこの唄の後半のところ、
「しゅわきませーりー、しゅわきませりー」という歌詞が、私には
「シュ、湧きませりー、シュ湧きませりー
シュワー、シュ湧きまーせーり」と、ヤカンの湯かなんかが
シューシュー湧いているという意味になっていたのだ。
それが、「「主は、来ませりー」と歌っているなんて
知らなかったのです。

では、カルトなやつ。それは興譲小学校の校歌。
「まーなびいのお、ちーからに、くーにおおもお、みおおも、
お子さん近い、まーもるぞうれし、」と、お子さんがまもなく
産まれるよーな気がしてしまうのだった。
歌詞は、「興さん誓い」なんだけれどね。


サマータイム

スペインに行って、感動したののひとつが、夜の九時すぎても明るいこと。
そして朝の七時にやっと明るくなること。だが、これって日本だってできるのだ。
欧州は、サマータイムで、時間が繰り上がってくる。
今は、朝の四時半だが、六月なので明るい。ここで2時間、サマータイムにすれば
六時半になり、みんな起き出してくる。そして暑くならないうちに働けるし
夜の七時は、九時にずれて、それだけ電力の無駄もなくなる。2時間の時差は
経済的にも、そして仕事が終わっても明るいというメリットもあり、
一度、日本でもヤレバいいのになあ。


ナガシマという神輿

長嶋茂雄は、何十年にもわたってもう十分国民に喜びを与えたのに
大病をわずらってもなお、まだ働かせようとする人たちが居る。
ナガシマという名前の神輿を担ぐことで、なにか
イイコトがあるのならと、ボロボロになって死ぬまで
神輿は、振り回されていくのだ。
弱った長嶋は見たくないと、強くて明るい笑顔を、
いつまでも望み要求するものたちの残酷さ。
長嶋さんが、可愛そうだ。


テンツ
米沢弁で、嘘のことをテンツという。
「テンツこくな」あるいは、「テンツ語ってんなずー」などど使うのだが、
ここから、地方ならではの言いまわしが起こる。
それは、天気予報だ。「天気予報じゃよお、今日は晴れるっつってだのに
雨だもなあ、全然あたんねな」などというと、相手は待ってましたとばかりこう言うのだ。
「だーがら、テンツ予報つーのだごでえ」

ワタクシ個人としては、中学校の英語で、テントの複数形が
テンツになると知って、変な気分になったもんだっけなあ。


オリジナル
新聞にはさまってくる情報紙のなかに
野田のホールで開くアマチュア・コンサートの
「ライブ・バンド募集」の記事があったのだが、
その条件をみると、選曲は「オリジナル不可、コピーのみ」とある。
なんだこれは。凄い神経だねえ。いったい誰が
こんな条件をだしたのか知らないが
こんな基準を言う人は 音楽の演奏をやってきた人間ではない。
無名のアマチュアのオリジナルなんか聞いても、誰も知らないんだから
みんなの知っている曲やってよ、てな感じなのかもしれないが、
どんなに未熟な曲でも、自分たちで作った曲こそ、素晴らしいのはアタリマエダろう。。
誰でも、最初は誰かの曲のコピーから始まるが
コピーよりも、オリジナルがどれだけ大切か。
それを不可とする神経、感動するしかない。目が点になるどころでは無い。
耳が点になるお話であります。


すいーと

原稿が上がるまぎわなどは、さすがに連日の疲労がたまって
フッと布団に逃げている自分がいたりする。そうして上がってからの
睡眠は、アチコチ神経が痛い感じだったりするが、タラフク眠ると
ほんとに、気持ちがイイ。甘い眠り、なんとも心地よいのだが、
この「すいーと」な「甘さに似た心地よさ」を味わうと、
フッと昔読んだ本のなかの一説が思い出される。
それは、中学校の英語の教科書だったような記憶だが、
賢者と王様の会話。
「この世で、一番甘いものは」という設問に、砂糖などと
答えるヤカラに混じって、賢者は、「それは眠りです」と言う。
若いころは、詩人だねー、砂糖のほうが甘いぜと思っていたが
まことに、チカゴロは、その言葉を思い出す。
ところで、このときの設問のなかに、王様は賢者のいくつかの
回答に感動して、「そなたに、ワシのできることはないか、何でも
かなえてやろう」と言うと、賢者はこう答える。
「王様が、そこから、除けてくれますか。王様のせいで
太陽の光がワタシに当たらないのです」と、ほざくのでありました。
王様の名前が信長だったら、シュッポオオオンと
賢者の首は飛んでしまったでしょう。



何が写るのか
国営放送の「武蔵」が小次郎を打つ場面での撮影に
写真用のカメラを何台も並べて、コマ撮りし、
それをコンピューター処理した画像を流した。その結果は
飛びあがる武蔵が降りるまでを、回るように写っている
技術の極みなのだろう。だが不思議だ。
なにか、技術しか写っていないような気がするのだ。
最近、衛星放送で、古い時代劇を見ると、
その迫力や画面の構図に、息が詰まることがある。
時代劇の切り合いシーン、結局
写っているのは、心の迫力なのだ。


推薦図書

「冤罪の作り方」大分女子短大生殺人事件
小林道雄・著 講談社文庫P620

冤罪などというと、戦時中とか戦後のドサクサの時期とかに
警察が、自白さえとれれば罪にできると、拷問したり、それに
近いことをしたりして起したもの、みたいな印象がある。
だが、この本に書かれた事件は、一九八一年に起こったもの。
大分のアパートで、女子が夜中に殺害される。
その事件の時刻、アバートの住民は、大きな声や物音を聞いている。
隣の部屋で、酔っ払って寝ていた住民の男は、酔って寝ていたので
気づかなかったと、警察に答える。
そして、それが怪しいと、警察で執拗な事情聴衆を受けさせられる。
ここから、警察は隣人を犯人と決め付けて、調書を
作文的に作り上げていく過程は、帝銀事件の平沢氏が味わった世界。
冤罪の最近の事件としては、松本サリン事件の河野氏が浮かぶ。
あの時も、事件が起こり数日で、河野氏宅の家宅捜査があり
報道は犯人扱いをはじめたのだった。こうしてみると
警察には正しい眼力が有る、などと思っては大間違いなのだ。
泥酔して物音に気づかないだけで、犯人に仕立てられてしまう。
推測、臆測の恐ろしさ。そしてそうしたことを疑い、真実を伝えるはずの
新聞やテレビの報道の、鵜呑みの姿。
これからも、何度でも、冤罪は作られてしまう。
この本は、高校での授業で、
読み話し合う価値のあるものだ。


夢の我が家

夢に出てくる我が家のほとんどは、米沢の割出町のものだ。
なんでこんなに米沢の家ばかりでるのだ、と思うが、
野田に家を建てて二十年。そんなわけで不思議なことに、現在の我が家を
舞台にした夢をほとんど見ない。
だが、今日、見た。そして見たことによるその画像は
芋づるのように記憶を引き釣りだし、何度か
、同じ家を舞台にして見ていることに気づいたのだが、
そうして夢に出てきている我が家。これが、やっぱり今のものではなく
開発前の、林の中に建っていた頃なのだ。
しかもその林が、夢のなかなので、どえらく林道か゜続き
隣との距離も、相当あるのだ。そして、夢のなかの家は
やはり、繰り返し「おんなじ風景」で現れるのに
現実とは、キッチリ違っているのだ。


記憶の

米沢にいたのは、十八年間。そのあと三十三年も過ぎて
町は、無かった道や新しい通りが出来て、そこを何度走っても
やっぱり、覚えられない。巽と市役所の位置関係が
何べんきても、曖昧なのだ。だが、昔からの通りは、
それはそれはスイスイと走れる。混んでいれば裏から裏と。
記憶とは、面白いものだ。
こうして、碁盤の目のような米沢の町を、ひさしぶりにチャリンコで走っていたら
小学校のときの、下校時の流行道のことを思い出した。
まさに、あみだくじみたいに、どーとでも行ける道を
気分次第で、ムズッテ曲がって帰るうち、自分なりの
流行の道がいろいろと起こったりしていたのだ。
それにしても、当然のことながら三十数年の歳月で
古い家は新しくなり、懐かしい家を探そうにも、あまりに
ボンヤリしてしまっているのは、残念だった。
小林考ニの下宿していた家、山田長司の下宿していた家。
あんなに何度も、雪崩れ込んだのに、家が変わっているためか
たどり着けない。しかしたどり着いたとして当時の
大家さんが居ても、どんな会話になるのだろう。
「コバヤシ、そんな人いたかもしんにげんども、で、
アンタは何なの」
「友達です。コバヤシが授業中で帰っていなくても、
早引きして、窓から入って、インスタント焼きソバ
を作って食っていた男です」


来日した頃

ビートルズが日本に来日した頃、日本がどれほど
未文化な国だったかは、前座にドリフターズを出したという神経だけでも
わかる。で、当時の日本の文化人とかいう種の人や音楽界の人たちも、
まともに評価している人は少なくて、ヤカマシイ音楽とは呼べないもの
みたいに言っていた。そのころ中学二年のオレは
馬鹿だなあ、イイものはイイんだよ、この凄さわかんねえのか、という気持ちだったが、
淡谷のり子が、「若いのに、コーラスしっかりしてんじゃないの」と誉めたのは
印象的だった。ビートルズを誉めるのは、勇気のいることだったのだ。
そのご、リボルバーとサージェントペッパーの発表で、ジャズ界の人たちすら
ビートルズは凄いと言いだして、昨日までケナシテイタ文化人たちが
転びビートルズ化していくのだった。
ビートルズは、大人やひとつ前の世代の感受性が
どれほど、硬直しているかを、教えてくれるリトマス試験の音だった。
今夜、初期のナンバー「PSアイラブユー」を弾いて、そのコード展開の
上手さ斬新さに、最初から突出したセンスだったことを今更ながら感心する。


アド用カラー
最近、ビイ4サイズで描いてるが、これだと
背景が少なくなり、その結果、叙情性が弱くなる。
広がりが無い。と、言われて、なるほど。
やっぱり、サイズいっこ上げてみるべし。


カツオのたたき

皮つきのカツオ。塩をまぶす。
ガスこんろの火で、強火のなかに、皮の部分焼く。
それから残りの面。
切ったら、熱いうちに食べる。
ふーむ、んまそーだ。


もしも

ジョン・レノンが、子供のときに描いたノートが
博物館に展示してあり、その上手さに驚いた。
もしも、彼が日本に生まれていたら
彼の最初のヒーローは、エルビスではなく
手塚治虫だったと思う。
彼が漫画家になっていたら、ずいぶん
ぶっ飛んだ「僕はセイウチ」を映像化していただろう。



三文の得

日曜の午後に家でテレビ見ている人って、病気の人と漫画家だけかな。
「コドモのギモン」という番組やってたが面白かった。
「「丁寧」ていねい、という言葉の語源は。」
「めじろ押し」の語源は。
「ろくでなし、の語源は」
丁寧は、中国の楽器の名前からきている。
戦場で、知らせをするときに鳴らす、手でもつ金属の鐘のようなもの。
めじろおしの意味は知ってたが、実際に、鳥のめじろが
止まり木に大量に並んでとまり、体を温めるためにとなりに体を押すところが可笑しい。
「ろくでなし」は、家禄や禄高の禄から来ていると思ったら、
「禄」は当て字で、本来は、「陸」リク。そしてこれは、大工の専門用語で
「平ら、水平」という意味。そこから「普通・正常」という意味になる。らしい。
めったやたらの「やたら」の語源は、何か。
雅楽のリズムに「やたら拍子」というのがあり、ニ拍のあと三拍打つ。
この拍子が難しくて、そこから意味が展開したらしい。
「千秋楽」「楽屋」「打ち合わせ」「打ち止め」「やぼ」「二の舞」これらは雅楽用語。
ではも「グダラナイ」の語源は。
私も、朝鮮半島の百済クダラ国から来ているのかなあと、前々から思っていた。
れは江戸時代。関西方面の上方のものが、ブランド品として江戸ものより
優れていて、そうした品物を「下り物」と呼んでいた。そこから、そうでないものを
「クダラナイ」と言うようになったらしい。


返却

四月二十一日、起きたら茶の間に大きな封筒。
何かが送られてきたのだ。なかにあったのは
ずいぶん昔に描いた童話の挿絵の一部。全部返還されていたと
思ったら、まだ残っていたのもズサンだが、何の連絡もなく
突然、「生原稿の原画を郵送してくる」。
なんて恐ろしい行為。原画を何た゛と思っているんだろう。

私は原画の郵送はしないし、返却も必ず手渡しにしている。
だが前にも、一度あった。
何の連絡もなく、雨の日に。
宅急便の人が電話で、「荷物持っていきますというので、
中身が何かも知らないから眠いので玄関先に置いててくれというと
エエっと渋っているので、出てみて、驚いた。それは分厚い包み。
そこに入っていたのはナンダと思う。
「オーロラ放送局の白黒原稿が単行本分がドッサリ」
しかも袋のアチコチが郵送で破れていた。あたりは雨。
もしも、宅急便が私のソコに置いておいての声に
ハイと置いていったら、雨もかかって、大惨事になるところだった。
まったく、身震いがした。
漫画家が、一枚一枚、いろいろと心込めて描いたものが
こんな風に、用が済むと送ってよこす神経、、、、
言葉にナランです。


蝿を手で捕る人

今は別界に行ったマツノお祖母さんと、
茶の間でお茶なんぞ飲んでると、突然
テーブルにとまったハエ。その瞬間
バアサンは、手でそのハエをシュッと
掴むのでした。その手さばきは見事というしかなく
その技は年よりになっても、落ちることなく
感動もので、オレもやってみたが
さっは゜り捕まらない。ハエの近くにそっと
手のひらを寄せ、そこからスッとすばやく
手を走らせつつ、コツとしては、その手が
ハエの飛ぶ瞬間に合わせて、微妙に上に浮き上がるアタリか。
なんてことを急に思い出したのは、
さきほど暖かくなって、家にハエが入ってきたのを
新聞丸めて叩き落とそうと、空しい奮闘をしたからでした。
まあ、近所にセザンヌやゴッホがいたら
タンギー老人などの作品と一緒に
「ハエを掴むバアサン」などの作品が生まれたであろう。


ヒーローの父

月刊誌「少年」の発売日を、心待ちして
学校から帰宅したときに、デンとある今月号の
デップリとした厚さが、宝物のように輝いていた。
「鉄人二十八号」これこそ、僕のヒーローだった。
ブラックオックスの重厚さ、バッカスの気持ち悪さ。
ロビーの不思議な感じ。アトムよりも鉄人。
そして僕が小学生のときに、ノートに描いた初めてのマンガの
コマは、明らかに、横山光輝の世界だった。
やがて、週刊誌のなかに、伊賀の影丸は現れ
毒ガスの湧く谷を飛びあがる男や、水のなかに
隠れている男の竹筒への葉っぱ乗せや
次々と倒れる敵や味方の顔への×マーク、
横山光輝こそ、僕に漫画の素晴らしさを
見せ付けた最初の人だった。
作品は、荒野へ残され、肉体は消えていく。
そして、散らばった記憶を抱えて
今夜、この国のアチコチで、親父たちが言うだろう。
たくさんのありがとうとサヨナラ。
先生という言葉は、学校の外側で自分が、見つけたときに言うんだ。
貴方は僕の先生です。
横山光輝先生、素晴らしい作品たちを
ありがとうございます。
合掌。

四月十六日深夜


石片

パソコンのそばに、クリーム色の石片があった。
これは米沢の田沢の山道で、水野さんが
ホラと簡単に見つけたものだ。遠い昔、いつのころだろう。
誰かが、石を砕いて作った石のナイフ。
手のなかに握ると、冷たさの向こうに
人の気配があるようだ。


ビートルズの絵葉書

中学生のとき、ビートルズのプロマイドを何枚か
買ったりして、それらは今も持っている。
当時、マネージャーのブライアンエプスタインは
こうしたものの販売を、ずいぶん規制していたため
ほんとうに種類も少なかった。
そのころなら、出れば出ただけ、僕は欲しかった。
だからこそ、ハーデイズナイトの映画の最後に
ヘリコプターからまかれるサイン入りのヤツは
スクリーンに飛びついてでも欲しいーーーーーと思ったものだ。
やがて、僕も大きくなるにつれ、エプスタインも死に
だんだんビートルズのプロマイドも大量に出まわるようになったが
よほどのカルトなやつとか、リバプールで買ったカッコイイもので
額入りとか、これはお気に入りだが、まあそんなに何でも欲しいつー感じではなくなった。
昨夜、酔った席で、コレどうぞと大量のプロマイドをもらった。見ているうち、酔いが薄くなるほど
カルトな、このワタシが見たことないような画像が何点もあり
咽喉が、ゴロロロロと鳴った。もしも、この場面に中学時代の僕が居たら
狂喜乱舞歓待山海走になっていただろう。そのカケラが体のなかから湧いてくるのが判った。
いいのかよ、こんな貴重なの貰っちゃって。むへへへ。
ありがとな。うえへへ。タコの前のヒデヨシ状態じゃ。

二十八日


メッツのスタジアム
今日クイズで、「リトル松井の行ったチーム、
ヌーヨークメッツのスタジアムは、何か」つーのがあり、
「あれれ、ヤンキーズ・スタジアム、でなく、サッカー見にいったのは
ジャイアンツ・スタジアムだよな、、あれれ、ワカラン」と見ていると
、答えが「シェイ・スタジアム」。
なーんだ、そうか「シェア・スタジアムか、ビートルズが
ライブやったとこ、じゃん。オレがニューヨークに行ったとき
帰りのタクシーから見て、おお、ここがビートルズのスタジアムか」と
やったじゃないか。しかしなんだ。
「シェイ」だと。「シェア」じゃないか。
スペルはSHEA。ビートルズ体験派には、どこまでも「シェア」だべよなあ。
「シェイなら、おそ松くんのイヤミじゃないか」


セピア色

モーツアルトが書いた楽譜のインクは・・・
イカの墨である。

古い写真のセピア色の、このセピアとは
「こう・イカ」の墨の色から来ている。

朝のテレビでやっていた。早起きは三文の得です。
もひとつ。

「万年時計」という時計がある。江戸末期に作られた
カラクリ時計で、日本地図の上に太陽や月が軌道をもって
移動したり、六ヶ所の時計盤には、干支盤、月の満ち欠け盤、
季節盤などがあり、これを作ったのが、カラクリ儀右門と呼ばれた男だが
この人が、のちに「東芝」の創始者のひとりになる。とな。


類似
米沢駅前のライブ画像が見られなくなって
小野川温泉の画像を、かわりに見たりしている。
そして、夜中にその画像をクリックして、アレレ
何かに、似ていることに気づいた。
それから、可笑しくなった。何とも、壮大にして可笑しい。
闇に浮かんだライトが、大きく二つの赤い楕円を
作っているのだが、まるで電子望遠鏡で
映した星の誕生みたいに見えるのだ。
そこに、「一分毎更新・小野川温泉街」とルビがふられているので
宇宙の壮大さと温泉がクロスして、可笑しい。
宇宙とお風呂、その深淵。まるで自分のマンガで描いている感覚が
ゴロンと現れたようだ。

http://www.chuokai-yamagata.or.jp/onogawa/live/live24_1.html


日本一周
「ダッシュ村」というテレビ番組のなかの
ソーラーカーで、海岸線に沿って日本一周するという企画を
見ていて、なんとも懐かしい気持ちが湧いてきた。
小学生の四年か五年のころ、「日本一周自転車旅行」という
本をみつけ、その体験本を自分の小遣いで買った。
これは自分で買った最初の本ではなかったろうか。そして
その人の体験を読み、自分も日本一周したくて、
毎日四十キロくらいの距離を、日本地図見ながら移動するという、
シュミレーションしていった。昭和三十年代の後半だから
今のように車社会ではなく、自転車で走っていても
のどかであり、舗装されていない道もあった時代だが
そうした旅の、「どこか遠く」を夢見る気持ちが
僕のペン先を、動かしている力でもあるのだ。


夢の町、夢の地図
締め切りが近づくと、仕事したくないので
ひたすら布団に入って寝る。飽きるほど寝ると、夢を見る。
そうした夢のなかで、長井市が出てきた。
長井は母の生まれた町で、子供のころ、夏休みや冬休み
アヤメ祭り、春休みと、休みになると行って、平山の親戚の家に
何日も泊って遊んでいた。長井にはバスか汽車で行ったのだが、
小学生の高学年から、一人で乗って行ってた。
こうした長井への行程が、夢のなかで、現れる。
たぶん、小松あたりの、夢の町や、長井の平山あたりの夢の町。
そして、そうした場所は、繰り返し、夢の中で現れるのだ。
目覚めたとき、夢を媒介して、古い記憶が、浮き上がってきたりする。


記憶の外輪山
十八年間住んでいた米沢の町からは、三百六十度
グルッと山並みが連なっている。東に奥羽山脈、南に
吾妻連邦、西に斜平山・飯豊、そして北西には朝日連邦。
それらの稜線は、火山の火口原の中から見た外輪山のようにも
おもえるのだが、今日ナデラ散策日記サイトを見ていたら
祝瓶山という、聞いたことない山のことがあり、クリックしてみたら
出できた画像の三角山に、見覚えがない。しかし、手前の山並みの感じは
米沢からの割出町あたりからみると、西の感じ、だよなあ、
右は朝日連邦だよなあと思いつつ
やっぱり、こんな山あったかなーと、三角山に対しての記憶の薄さを感じたのだ。
そこで、ネットで検索してみると・・・なんとこの山が出でいる。
うーむ、ネットって、凄いなあのパート2。


「思いでのホノルル」
という曲がある。ワタシが結婚したての頃、ハワイアンとか
カリブとか、海洋民族の軽い感じの音楽が聞きたくて
ラジオの放送のの特番を録音したなかに入ってたのだ。
なんとも昔の歌で、女性の声も時代的なのだが
けっこう気に入り、今も脳裏に曲は住みついている。
さて、こんな曲、ネットで検索したら出るかなあとやってみたら
ひっかかった。ふーむ、ネットって凄いなあ。


イライラ
今まで繰り返し見た映画のなかで、その回数の一位は、
「ブッチキャシディ・アンド・サンダンスキッド」だ。
「明日に向かって撃て」という日本題。
今日も、仕事しながらデレビでやっているのを見たが、
まったく見事なくらい、物語の展開に無駄がなく、感心するのだが
セリフとか、次に何言うかほとんど覚えているし、「ちくしょう」のスラング語とか
先に言ってしまえる。一番最初にこの映画みたのは
東京に出てきて、牛乳配達のバイトしていた時期。
飯田橋の佳作座で見て、メチャクチャ感動したあと
ラストシーンのことで、牛乳配達のバイトの渡辺さんと話した。
「こんどは、オーストラリアだ」と、軍隊の待ち構えている外に
二人が出た瞬間、号令とともに、ドドドという銃声音が
くりかえされ、二人はストップモーションになる。
あの場面で終わることに、十九か二十歳のワタシは、不満だったのだ。
ボロボロに二人が撃たれる場面、それが見たかった。
「そうじゃないよ、あそこで止まる、
それが優しさなんだ」という、渡辺サンの意見を聞きつつ、
「ボニーアンドクライド」のように、穴ダラケになるサンダンスキッドと
ブッチキャシディを、見ることで、何か、感じたかったのだ。
地獄へのゴール・シーン。それを直視できるし、見たいと思う。
若さとは、そういうものをふくんでもいるのだろう。
すべての若者がそうだとは思わないが、
今のワタシにはない苛立ちのようなものが、
それを、直視したがっていたのだ。



幻の十二
なにやら、ガッツ石松みたいだが
下書きで、二枚も同じページ描いたことを
下書き終わってから、妻に指摘された。
エライことである。直すったって、直しようがないのだ。
さて、十二ページを二枚も描いてしまい、どうするべとなった時、
普通、単純に、一枚とってしまえばいと思うが、当然話しの流れが
一枚分無くなるから、十三ページの第一コマにつながらない。
どうしても、十二と十三の下書きを変更しなければならないし
それだけでも、つながらない場合もある。だが、超ラッキー、
当然、一枚分の情報は減り、その結果
伏線としての言葉は無くなったのだが、それでも、コマもいじらず
ネームを一箇所変えただけで、形のうえでは繋がるという
これは、奇跡なのよー。
ということで、余ってしまったダブリ十二ページの下書きは、
幻の十二ページ。単行本の後書きのところに、載せるかもしれません。


昼ねの達人

野良猫の鈴尾は、サカリになってアチコチ
うろつくようになったら、また、人間に対する警戒心が
強くなって、ワタシがエサやりに近づいても
距離をおいたり、傍にいるとエサ食わなかったりする。
今日は、いい天気で、まるで春のようだが、
陽射しの差し込むテラスの、鈴尾用に置いたダンボール箱に
ヤツは入らず、道路ぎわの雪柳の枝の下に
丸くなって、陽射しの日陰で寝ている。
まるで、避暑地のような、雪柳の下。
ネコは、いつも適度な寝やすさの場所を見つけるプロなのだ。
陽射しの強い箱を離れ、雪柳の下でゴロリとは
なんとも、昼ね道の達人です。。


なんでコンナ歌覚えてんだろう
「バギュームカーの歌」というのがある。
俺が高校生のころ、コミック・ソング的なのりで
何かで聞いたのだが、そのとき、テープにでも録音したのだろうか。
あれから四十年もの間、突然、脳内でその歌は
突発的に起こるのだ。
「ばぎゅーーむ・かーあ、ばぎゅーむ・かーあ
おう、香りの素敵な、その車、
ガタガタ道路を、走ってく・・・・
今日は帰りに、タイヤキ買ったるでえ」
この「バキューム」という歌詞の部分の旋律が
ディランっぽく、大きくうねり、耳につく。
最後の歌詞も、なんか不衛生なタイヤキのようで、悪印象。
それにしても、こんな、作者本人も忘れたような歌を
いったい、どれだけの人が覚えているのだろう。
そーいえば、「長島茂雄の歌」つーのも在ったなあ。
「さーさ、コレカラ歌うのは
長島、茂雄の話ー、生まれたときから
ボールと、バットーを持っていたあ」
うーむ、この歌詞にシビレタのか。


サナブリ
上々台風のホームページの、コンサートタイトルに
「サナブリ」という言葉があったが、これはなんとも懐かしい。
我が家は昔、魚屋をやっていた。米沢の町のはずれで
あとは田んぼが広がるあたりなので、お客さんは
北東に広がる農家が多かった。ヤギハシやカミゴウやワダや
ハナザワやそうした場所。
で、魚屋といっても、昔はオムガサリ「結婚式」があると
我が家に、仕出しの注文があり、茶の間やとなりの部屋いっぱいに
テーブルだして、そこにオリツメの箱を丸定箱屋から買って待て
ならべ、そのなかに、焼いた鯛や、カンテンやいろいろとつめ
弁当を作るのだった。こうした仕事が、田植えが終わった農家などで
「サナブリ」と称して、作業終了の祝いとして、宴を設けるとき
我が家は弁当屋と化し、「ほら、博も、手伝え」と
内輪で、パタパタさせられたりしたのでした。


自力と依頼

家を建てるということを、生涯に何度も経験するわけではないので
人は「専門家」にまかせようと考える。
今回、ずてに建物が建っている場所なので、解体しなければならない。
さて、解体の費用はいくらかかるのか。そうしたことを
依頼して、すべて他人任せにして、お金だけを払おうとすれば、
それだけの結果が生まれる。インターネットや建築本をいろいろと読むと
建て主もまた、努力して、いろいろと知るべきなのだという例がいくつもあつた。
そして、ひとつ驚いたことは、こうした解体の費用というものに
相当の開きが起こるということ。なにしろ、建物の規模からいっても
こうした値段の開きは馬鹿にならない。
こうして、ワタシらは、タウンペーシの解体コーナーを見て、
四軒の解体業者さんに電話して、無料見積もりを依頼した。
さて、その結果。我が家は六十五坪の家。そのうち二十五坪を
先に解体する。で、その見積もりの値段、一番安いほうと
高いほうの開き、いくらだと思いますか。ビックラコキマロです。
個人経営と、会社組織では、ハラホロヒレハレです。
やっぱり、他人にすべて委託なとせず、自分でできることは
自分でシマショウ。


ケヤキとテラス

六年前に植えたケヤキは巨木化し
すでに二階の屋根を越え、隣人宅に落ち葉を雨のように降らせている。
すでに、境界の木々のトラブルで、この先
このケヤキの葉も、スッタモンダの種になるのは目に見えている。
すでに、我が家の解体と新築の線で、日々は進み
四本の分かれて生えたケヤキの一本は
あまりにアッサリと、チェインソーで切られ、庭にゴロンと寝ている。
それをテラスに座って見ながら、その丸さの気配がどうも
ドコカで見た記憶があるのだ。。そうか、田沢の仙人宅の、飲み小屋の柱だ。
米沢に帰るだびに尋ねる田沢の庵。
そこには、亭主たちが自力で建てた家と、その脇に
これまた自力で建てた「飲み小屋」がある。
そこで、囲炉裏にマキをくべながら、火炎土器の
ルーツのような炎を見て、闇のなかで住吉の一升瓶の
熱燗を蝋燭の火をたよりに注ぐ。至福の時。
そんな囲炉裏を、抱えた庵の柱。
ううむ、ケヤキはワタシの手で倒しても
そうなのだ、庵を作り、飲み小屋として、このテラスの解体のあとの
木々のもったいなさも、これでクリアできるぞ。
チェインソーは、勇気をもくれた。
技術家庭の成績3の、工作嫌いの私が、飲み小屋建てる。
囲炉裏を建てる。それこそが、ケヤキへの供養であり活用なのだ。
そして解体されるテラスの再製なのだ。
破壊は、次の創造へなだれて行く。
二月八日午前一時半


いまっと・方言を話そう

土地土地の言葉は、その奥に歴史や独特の意味を抱えていて
共通語ではとらえられないニュアンスがあり、
なんといっても、そこの風景そのものなのだ。
ワタシの小さいころは、文部省や学校の先生などが、
「授業中、方言を話すな」と言って
自分らの言葉を、卑下したものです。ヒドイところでは
「方言札」などというものを下げさせ、懲罰したそうです。
馬鹿ですねー、恐ろしいくらい哀れなセンスです。
ところか、昨今、文部省は、「方言を大切にしょう」などと
方針を変えたようですが、こうしたセンスとは、きっぱりと一線をひいたところで
自分らの土地の言葉を、みなさん、もっとドンドコと話ましょう。
ワタシは、米沢弁が、十八の時で止まっているので、
それから三十年以上、頭のなかに米沢弁が残っているのですが
肝心の米沢じゃ、そうした方言をスッカリ忘れたり
話さなくなったりしているので、一部の市役所職員と
飲みやで話してっと、そこの飲み屋のほかのお客さんたちが
「いゃああ、なづかしなあ、そのコドハ゛よお」などと方言談義になります。
乱反射で、蓮華丸くんが言ってる「ジャミル」は
普通、子供がギャアスカわめき泣くサマを言いますが、
「いゃあ、おらえのトーチャン、きのう、オメシマ酒飲んで帰ってきで、
ジャミで、寝ねなだ、やんだくナッツ」と、泥酔馬鹿親父のサマも言います。
このジャミルは、「トトあんどドス」にも使われてますが、
ボブマリーのアルバム、「エンソダス」に
「ジャミン」という曲があり、「じゃみん・じゃみん」と連呼されると
米沢弁ソングに聞こえて、なりません。
さてさて、そーいうわけですから
諸君、じいさんばあさんと会話して、もっと、自分の土地の言葉
シャベッペズウ。

二月二日午前四時だは。

「米沢方言辞典」・昭和五ニ年刊・上村良作著をひもとくと
「ずくだれ」の項の列に、「ずくなし」老人語とある。
老人語とは、そうとう古い言葉で、若者はすでに知らない域のもの。
懐かしいところでは、「つけこみ」。
これは、子供どうしの喧嘩などで、親が相手の家に
抗議に行くこと。ワタクシつけごみ前科一犯です。
「へつけな」の語彙に「そつけな」よりも侮蔑したもの、つーのがおかしい。
そして、これまた懐かしい言葉ーとして
「すいらんぺ」。なんだかフランス語みたいだなや。


定説

古いビデオを見ているうち、思った。
現場にいた者の、一部のコメントだけが
流布を続ける。だが、その一部の者の
視線や語られた対象は、全体ではなく
その語り手の都合よく、映し出されたりしている。
ましてやその世界の行為者ではない者たちの、
語りの積み重ねで安易なる定説は生まれる。
そして、まきれもなく、その影になっている部分
そこを目撃した者の声こそ、隠された一面を
捕らえているのに、その声の主が消えれば
定説は、間抜けなままの安泰となる。


手ボッコ

不器用という意味の方言、米沢では「てぼっこ」というのだが、
子供のころ、風呂敷を縛るつーか、結ぶとこが
うまくできず、「博だら、てぼっこだずなあ」と
マツノさんに言われて、そーとー胸をえぐられた。
小学校の家庭科での、ぞうきんを縫うやつなんか
ぜんぜんうまくできなくて、となりの女の子に
やってもらったりの状態。
そーした、ブキッチョな私でも、
プラモデルは、美しく見え、ジューキみしん屋の
プラモデルの飛行機とか、小さいの買ってきて
組み立てようとしたら、セメダインが手につくし
羽根につくし、完成図と、あまりに違う無様な飛行機。
こうして、つくづく、工作は苦手となりました。
最近、テレビで、「タイタニック」号の組み立て本の
発売をやっていたが、狂気の目で、組み立てにハマル役の
男優が、クサイ演技で笑える。笑いつつ
ああした完成にほど遠い自分の両手が、疎ましい。

一月十九日


シーソーの擬音についての考察

しばらく昔のこと「シーソー」に子供と乗って、妻は言いました。
「ギッタン・バッコン」「ギッタン・バッコン」それを見た私は
「なんだよ、その掛け声、シーソーはギッコン・バッタンだろ」
米沢では、そう呼び、都内麻布では、そんな風に違うというのだが
どうみても、ギッタンバッコンでは、板がはずれている感じします。
ギッコンバッタン、これが正解とおもいつつ、突然アンケートです。
貴方は、シーソーでどんな掛け声しましたか。


と、ページで告知したところ、たくさんの方々より
返信がありました。

Aギッコン・バッタン  38
名古屋・群馬・和歌山・京都・兵庫・福島
米沢窪田・北九州・米沢割出町・神奈川・名古屋
北海道・池袋・熊本・野田・山形庄内・米沢・大阪
柏・茨城・東京・兵庫・愛知尾張・福岡・大阪中河内
札幌・大阪・岩手・茨城・宮城・宮城南部・都内下町・埼玉
岩手北上、都内墨田、千葉八千代

Bギッタン・バッコン 36
熊本・群馬・都内中野・都内麻布・秋田・横浜
富山・埼玉・新潟・栃木・新潟・仙台・横浜・群馬・都内中野
長野佐久・所沢・長崎・新潟・都内大田・中野
三重・千葉・鎌倉・埼玉・宮崎日南・茅ヶ崎
村上・山梨・千葉富津・熊本八代・都内中野・東京昭島・埼玉・北海道

cギッタン・バッタン  7
静岡・岩手・紀伊・富山・秦野・石川
ギッコン・バッコン  6
神奈川・瀬戸・山形庄内・静岡・長崎・宮崎

ギッコンバッタンが、全国区に散らばっているようですが
ギッタンバッコンというのも、確かに在ります。
もともと、Aが全国に流れて、あとからBが
生まれたのでしょうか。それとも地域的に別なのか、謎です。
また、音感から考えると
「ぎこん」「ばたん」は自然ですが、「ギタン」「バコン」は
相当、奇妙に響きます。この奇妙さこそ、謎なのです。

さて、米沢三名が同じなので、米沢では「ギッコンバッタン」です。
私の予感では、東北はみなコレ同じと思ったのに、岩手と秋田に
「ギッタン・バッコン」派が居ることに驚き、どうも単純な分布図には
ならないようです。
しかも、「ギッタン・バッコン」などというシーソー本まであるとは。
どうも「ギッタンバッコン」派が増えてきたぞ。
一月・八日現在。
ついに、ギッタンバッコンが主流になってしまった。十一日。
今のところ、大阪には、ギッタンバッコンが無い。


はいすぴいど釣り師より、下記のサイトの知らせあり。

http://weekly.freeml.com/chousa/shiso.html

かつて関西のテレビ番組「探偵ナイトスクープ」であった課題
「あほ・馬鹿の言葉は、大阪と東京から、東海道線の
どのあたりの駅で変わるのか」で、番組はいく週も盛りあがり
最後にとーとー立派な一冊の本「アホバカ分布」というやつになった。
そこには、波紋のような形。一種のドーナツ現象が
かつての都・京都を中心に、はやり言葉の波紋として、全国に
波状して残るという姿が現れた。
さて、本来なら、家作りにはまらなきゃ、ごろなお通信で
返信のあった声を、地図的にやるべきだったが、今のワタシに
そのような時間がない。
しかし、大阪はギッコンバッタン、そして都内で多いのが
ギッタンバッコン。新潟もそのようだ、ってなことが、自分でも推定していたが、
上記のサイトで地図化してあり、そこにほぼ同じような結果が出ていた。
こうした分布は、何故起こったのだろう。
やはり、始まりに「ギッコンバッタン」があり、やがて
都市「東京」で、「ギッタンバッコン」が起こったのではないだろうか。
ほんじゃ、どーして九州にも、という謎があるが
それはそれ、西郷隆盛の西南の役で、
政府軍が、投降をうながすために、シーソーやったのさ。
一月二十一日水曜


流星

流れ星をみるのが、立ち止まっての夜空から
とは限らない。ここ最近、二度ほと゛あつたのは、
野田の道を車で走っているとき、突然、道路のうえのほうで
サアアアと光が落ちて、消えるのだ。
私の車は掃除しないから、ガラスも汚いのに
それでも輝く閃光。相当に立派な流れ星。
でも、おおっなどと歓心してるほど、余裕がないのは
運転中だからね。


庭木無断伐採の図

画面左、隣宅が、車庫の上に作った見晴台の手すり。電柱は我が家の敷地に立っている。
上の方に街灯があるが、木はこの街灯の上までのびていた。
右手は上部しか切られていないカイズカイブキ。だからコンモリして塀の役をしている
だが中央の、五本は、枝がきれいに落とされて棒状になってるため
塀の役をはたさず、庭のなかが通行人から見えるようになっちまった。


嫌なヤツ

鹿島アントラーズは、リーグが始まるときから
一番ひいきにしていたが、レイソルが上がってきて一番ひいきが変わっても
嫌いなチームではなかった。しっかし、トニーニョセレーゾ監督の
采配で、国立でやった柏対鹿島。勝てば柏の優勝のときの
すさまじい時間稼ぎのやり方に、こんなのサッカーじゃねーぞと
俺はぶち切れた。ボールもって、サイドラインやコーナーに行き三人で壁つくって
柏の選手を近づけない。馬鹿じゃないか、これは試合じゃないよと憮然として
この日を境に、鹿島は俺にとって完全に腐れチームとなつた。
さて、そこの守りの柱、アゴ男の秋田のやつは、実に嫌なヤツだ。
あらゆるチームで、自分のチームの頼りになる男は、相手チームから見たら
嫌なヤツなのだが、北島が秋田に後ろから頭どつかれて、しゃがみこんでいる。
主審が背むけている瞬間に、ぶったたかれたのだが、
北島も、たたかれてしゃがんでないで、うまくどつき返すくらいの根性出せよなあ。
さて、数日前、天皇杯で柏対鹿島があり、今期で退団する秋田にとって
ここで負けたら、それで服脱ぐつーのに、2対Tでアウイの柏が勝っていて、残り数分
ホレホレ秋田、おまえの最期だホームで負けて去れと見ていたら、同点され逆転。
ばかやろおお、。情けないぞ柏、プロの厳しさ勝負の冷たさを
教えてやれずに、砂噛んでるのは、こっちのほうだった。
こうしてアントラーズへの怨念を重ねるのだわい。


木が切られた日・その一
その2はこの下のほう

十二月十六日 午後目覚めて、コーヒー呑んでると
妻が言う。「がっかりしないで聞いてね。
隣りの家が、境界のところにあるうちの木たちの
我が家の土地に生えている部分をバッサリ切ったのよ」
家の土地に生えてる部分だと。
テラスから見たら、唖然。
日当たりが悪いので、木を切ってもいいかと
隣人に半月前くらいに言われ、妻はいいですよと返事したのだ。
私は、それを聞いたとき、一瞬嫌な気がして妻に言った。
「どうして、主人と相談するって言わなかったんだ。
それに、そちらの土地に侵入した部分は切られてかまいませんが
こちらの土地に生えてる部分については、とにかく
主人と相談しないとわかりません、とか答えればよかったのに。」
「でも、まさか、あんなに切るとは、思わなかったんだよ」。
去年も、街灯が見えないから木切ってくれと言われて、ワタシラで切りつつも
なんで我が家の土地のなかの部分なのに切るんだと゛
適当に切って終わりにしていたのだ。
昨年も、隣人は「日陰でこまるのでうちの土地に入ってきているところは
切ってます」というので、ソチラに入ったものが切られるのは
当然と思っていたので、そうした意味での
「切ってもイイか」という程度の会話に、妻は「切ってもいい」と答えたのだ。
さて、嫌な予感も少しはあったが、まさか私もこんなにヒドク切るとは思わなかった。
しかも、とてもシロウトのできる作業では無いのだ。二本の大きな常緑樹は
一本は高さの三分の一バッサリ、もう一本は枝の七割が落とされている。
人の家の木だから、こんなことが出来るにしても、すさまじい。
これだけの切って行った電ノコで切る音が聞こえなかったのだから
昨日我が家にだれもいない時刻に切られたという感じ。
もし我が家にだれかいたら、絶対、阻止した。あまりにヒドイ行為だ。
その高く太い枝が大量にバッサリやられているところからみると
園芸の業者が来て、クレーンを使って切ったという凄さ。
二本の大きな木のほかに、カイズカイブキが十本以上、頭の部分が切断されている。
だが日当たりうんぬんで切るとして、我が家の塀にあたる
カイヅカイブキが、四本、全部枝が落とされて、棒のようになっているのを
見て、こんなの犯罪だろうと、怒りが湧いてきた。あまりにヒドイ。
もう、言葉にならない。
一応、写真に撮ってシャッター押すとき、涙が出た。
我が家の庭になている土地は、あとで買ったので北向きにあり
その隣りの家の日当たりは、庭木によって影っているのだ。
庭の木は、大事にしたい。だが隣人とモメタイわけではない。
どうすればいいか。決心せよと、切られた枝が言っている。
そうですね。決心しましょう。
それにしても
これだけのことをされて、黙っているわけにはいかない。
一応、これ以上切られては困るので、「まさか、
こんな風に切られるとは思っていなかった。今後一切切らないでくれ」と
怒りで字がみだれまくった手紙を書き留守宅のポストに投函した。
このまま、隣人が帰ったところに、話に行ったら、自分がブチキレルのは
相当ありうるからだ。ショックで呆れ返り仕事にならない。
夕方、隣の奥さんが謝罪に来た。私、ひとりで対応した。
「あんなに切ってしまってスイマセン」
「甥っ子がやったもので」と、私は立ち会っていなかったという風。
そんな無責任なことがあるものか。私たちが居ない時に、自分らもたちあわず
勝手に他人の屋敷の木を大量に切ってしまっただと。
これだけ細かくいろんな箇所が切られているんだから
指示していると思うのが普通だろうし、知らなかったなどと言える出来事じゃない。
「奥さんが切ってもいいって言ったもんですから」。
まるで徳川が大阪城の掘埋めたようなアクドイやりくち。
案の定そうきたか。声は丁寧だが、ヤッテルコトはヒドイ、
さすがに年の功、見事な経験値と感心してしまいつつ言った。
「カイヅカイブキは丸坊主ですよ。あんなの酷いじゃないですか」
「弁償しますので」。弁償・・・・。あれだけたくさんの木切り落として
五万や十万で済む話じゃないぞ。
「判りましたので、弁償はけっこうです」とお断りし、ドアを閉めた。


木は切られて・その2

さて、頼みもしないのに、業者まで出動し
電ノコでバリバリと切られた我が家の樹たち。
こうした隣人との境界ぎわに立つ木は、また歳月のなかで
成長すれば、切ってくれコールが起こる。
だが、切ってくれと言われで切る筋合いはもともと無いものなのだ。しかし
庭にはもっと巨大な落葉樹ケヤキがあり、コヤツは成長しつづけ、やがて間違いなく
隣人の屋根に大量の落ち葉を降らす。これは相当もめるはずだ。
さて、現在庭にしている土地を七年前の九六年に買った時
我が家では、そこに新しく家を建てて、現在の家の部分を庭にするという
考えもあったが、増築してまだ六年の二階をふくむ家を壊す勇気が私にはなかつた。
そして、九八年大幅な改築という形をとったのだが、考えが甘かった。
改築はあくまでも原型の形をアチコチで変えることができず
実に不便と不安定な家となり、予想以上に落ち着きの無い住み心地なのだ。。
その結果、夢のなかで、私は何度も家を、現在の庭の部分に建てなかったことを後悔したり
目覚めの日々のなかで、何度も、後悔の念が湧いてきたのだ。そして
今年も、新しく家を建てるという構想が我が家で持ち上がり
地下室作ろうかなどと、設計図がいくつも作られていたのだ。
だが、家をぶっこわして建てるのには、相当の決心がいる。
そして、あの丸坊主のカイズカイブキと切り落とされた枝たちが、決心しろと言ったわけだ。
ヨロシイ。
庭の木がこれ以上、隣人とのゴタゴタになるのはお断り。
庭の木々たちは、現在の建物の部分に移植する。
そして、家は新しく、庭に建つ。
2004年、建設の一年になる。

十二月17日


その3

昼目覚める。仕事も上がり、ホッと一息。
やっと、木々を切られたことの、憤りが湧いてくる。
締め切り二日前の、発覚では、頭が2分けできないのだ。
家建てることで、このことは回避されるが、
切られた木や、こうした行為の罪深さは
犯罪では、無いのか。
切りました・抗議されると謝って・お金を払いました・という前に
相手方は、法律的に、犯罪ナンダという自覚があるのだろうか。
ここは、一度、警察に相談しよう
さて、いかなる判定が起こるか
昼、川間駅南口前・派出所iに。警官に写真見せて事情を説明する。
「こうしたトラブルは・たまに有ります」
「少し切っていいか、と言って、、いいですよ、という返答をした以上、
法律的には、犯罪にはならない、のです。」犯罪にはナラナイ。
言葉とは、恐ろしいものだ。軽く切ってもイイカと言われ
イイと答えた以上、重く切られても、法的には無罪だとお。
そんなら、人間同士、気安い会話すらできないではないか。
だが、もちろん、刑法ではそうだが、民事裁判の観点からいうと
これは、ただの無罪とはナラナイという気配。
昼時に行ったので、ラーメンがきた警官二名は、
「あとで現場に行きますので。隣人の方の言い分も聞いて
調べますので」「よろしくお願いします」。
それから三十分後、二人の警官はバイクできて、
切られた個所をみたあと、うちと隣とに分かれてやってきた。
「確かに、ひどい状態ですね。だた、切るとなったとき、
隣人に、必ず立ち会いますから、と言ったりしてなかったのですか」
「言ってません。なにしろ、こんな規模と切られるとは
思っていないから。それに、第一、アチラの方が
切る日を言ってきて、立会いを頼むのが、筋でしょう。」と私。
「そうなんです」と警官。やがて年配の警官が隣人の方から
事情聴集をすんできて、いかにも私が怒るのも無理ないなあ、といった感じで
「とにかく、今、隣の方が夫妻で、もう一度、謝罪にきますので」。
やがて、六十すぎの、分別のわかるはずの人間二名が、やってきて
奥さんが「ほんとうにすいませんでした。」とペコペコするが、
「すいませんじゃなくて、元に戻してくれればいいんですよ。」
切られた大きな二本の木も、。奥さんは、カイズカイブキくらいなら
一本五千円で、丸坊主にしたのが五本だから、まあ、上を落としたものも
混ぜると、十五本×五千円程度ですむ、と思っただろうが
さすがに、大きな木は高いとびびつたのか、「だって、おんなじ木なんてないですよ」
などと言う。「おんなじ木を探せとは言いませんが、それ相当の木を
植えて、戻せばいいんですよ」。隣人は、そこで、
「わかりました。ウチがかって切ったのですから、弁償します」などとは言わない。
腹のなかで、おもっきり切ることは、決めていたからだ。
確信犯なのだ。
「だいたい、いつ切ったのですか」「七日の日曜」
ええ。「一週間も気がつかなかったのか」。なにしろ、庭は木々で覆われ
家のなかから、切られた木は見えないのだ。
「おいっこが、やったもので」。おいっこは関係ないんですよ。
とにかく、こんなことをして、誤ってすまされるわけないでしよう。
警官の立会いのなかで、「弁償するのは、当たり前でしょう」という
私の態度に、隣人の「弁償しなくてはならないのか、そうだろうな」という態度で
「新しく庭を作ったら、そのときにでも、ウチで木買いますから、それを植えて」
などと言ってきたが、元に戻すのは当然だということで、私は言った。
「とにかく、我が家で、弁償させるか、どうするかもう一度、相談しますから。
わかりましたので、もう結構です。」
警官は、黙って見ていて、隣人もまた、当然のごとく、困ったなあという状態で
会見は終わった。
もしも、いまのままの庭ならば、たぶん、キチンと庭師を頼んで
現状回復させるために、別な木々植え替えるだろう。だが、そうはしない。
この被害を、ばねにして、金輪際、こつけな酷いだまし討ちを浴びないために、
家を建てるのです。


踊るなんて大嫌いた゛った

上京して二年目の秋だったような気がする。
俺の住んでいた小石川から歩いて東大に行き
学園祭のコンサートを見た。
夕暮れになり、シルエットのようにして風のなかで
「この僕を、せいいっぱい好きになっておくれ」と
友部正人が唄った。そのあと別なバンドが出て
ガンガンやりだすと、あたりの人たちは立って踊り出し
地面に座っているのは、俺だけのような状態になり
酔っぱらったアンチャンが、「座ってないで
踊ろうよ」とムリヤリ引っ張ったので、
るせーコノヤロとなって、モメタのだが、
そのころ、俺は音楽聞いて踊るなんて、大嫌いだった。
あのころのイライラ、ほんとにイライラしていた。


野良
野良猫の鈴尾は、秋刀魚の残りでも
なんでも、ガツガツ食っていた。
そして、あっというまにプックリと太り、
最近では、キャットフードも残すようになった。
今夜、秋刀魚の残りをやったら、食わない。
凄いなあ。もう、野良とは呼べない贅沢さ。


遊び場を仕切る

いろんな国のフットボール・スタジアムに行き
いろんな国民の、応援のしかたをみていると
国民性のようなものが、各地で違うのを感じる。
イングランドの応援は、フーリガンのイメージがあるが
実際のスタジアムのなかは、毅然としたもので、試合をよく見ている、という感じ。
ボールを取った瞬間の、攻撃に転じる瞬間に客席は
ゴオオオと湧く。実に試合見ている。いいプレーには拍手。
リバプールでは、なんと相手のバルサのリバウドのプレーに
拍手が起こったときなど、感動した。
イタリアはわいわい、がやがや。ドイツのミュンヘンでは客が
重い感じで、追いつめられてからのコールが凄い。
そして、日本はといえば、かつて日韓戦に行ったら
へんなアンチャンが試合前に「ええ、このあたり、私が
仕切りますのでヨロシク」だと。馬鹿じゃないのか。
試合の展開に関係なく、試合もみないで、ひたすら
応援席を管理して、いい気持ちになっている人たち。
これって、野球のスタジアムがやってきたやり方なんだろうが、
遊び場まで、仕切りたがる神経。無粋きわまりない。


もろもろ

ナデラを白く染めたりしていた雪。
七日には米沢の里にも、初雪になって積もったらしい。
雪は、雨がミゾレになって、やがて雪になる場合や
粉雪のこまいのが、風に舞うように踊るように降る場合や
いろいろある。その降り方を見ると、
こりゃあ積もるなあと思ったり、こんなチラチラじゃ
積もんないとわかったりする。そしてボタン雪といって
雪の粒が大きい奴、多少湿り気のある雪が、ゴッソリと
ムキになって降ってくると、マツノばあちゃんは言ったものだ。
「ああ、嫌んだごど。もろもろ、降ってきたず」。あのもろもろとした降り方、
あれが子供の僕には、雪の「意志」の現れのように、感じられた。


テロであんめぇ

イラクで外交官が二名襲われて死亡した時
小泉首相は、「こうしたテロに屈しない」と言ったのを聞いて
言葉の「すり替え」はヤメロと思った。
何が、テロだ。イラクという国に侵攻して、そこの政府を
倒した戦争の、これは続き、テロなんかではなく
侵略者との「戦争」なんだ。
「テロに屈しない」ではなく、米国追随をやめない、と言う実に
哀れな姿です。防衛庁の長官の言葉。
「日本は、中東に九十パーセントの石油依存しているのです。
ですから、その地の安定のために、行かなくてはなりません。」
経済のための、侵略荷担です。古来より永遠に続く
自国経済のための他国侵略。
石油のために、流れる血なんて、まっぴらだ。
自衛隊の兵士のみなさん、国家経済繁栄などという
亡霊のために、死ぬことなかれ。腹痛、家族の病気、
さまざまな理由をもって、腰抜けのそしり受けても
イラクに行かないでください。
カムイ伝でも、やってます。
「みんなで、逃散するべ」


いまごろ気づく

米沢弁で「オガッツァマ」という言葉がある。
「ままこど遊び」のことだったはずだ。
さて、この言葉を口にして、今、急に湧いてきた気持ち。
それは九六年、イギリスに行き、ユーロ九六大会を見たときのこと。
イングランドの選手、うー、名前でないょー、そーだ、ガスコイン。
で、あいつの愛称が「ガッツァ」だった。だが当時この名を聞いても
ちっともカッコヨク思えなかったのが、「おガッツァま」のせいだと
いまころ、まことアジツケタぞ。


読書と土俵

一晩で三冊、本読んだ。つまらなかった。で、四冊目のが、手強い。
読書を相撲にたとえると、いい本は、凄い関取みたいなもので
読んでいるうち、どこか遠くまで、吹き飛ばされてしまう感じ。
つまらん本は、弱い関取を簡単に投げてしまったようなもの。
見たことのない技で、土俵の遙か彼方へ、
吹っ飛ばしてくれる本に、逢いたい。


あぱとぱ

あぱとぱ、一帯何語であろうかと言えば
突然、頭の中に湧いてきた立派な日本語である。
米沢で、かつて使われていた方言なのだ。
「あわてふためく」という言う意味で
「いゃああ、あぱとぱ・てよお」などと、あせりまくった時に使う。

つーわけで、バルサのルイス・エンリケ殿。
貴公に、くれぐれもお頼み申し候。
「レアルの者どもを、あぱとぱって、してけろずうう」


群れる
都心を点々としていた猿のアザミが、捕獲されて
その後どうなったのかと思っていたら、
高尾山の猿園に、入れたらしいのだが、群れと一緒にしたら死亡した。
原因は、猿に一緒になった日に噛まれた傷によるとのこと。
群れには、群れの掟があり
人の都合などとは、別のものなのだなあ。
白土三平さんの漫画を読んだあとのような気分。
十二月三日


雲・真っ赤
昔むかしのこと、マントの家にいったら
悩んだ顔して、こんどの「大往生」の為の
歌を作っている最中だとのたまう。
ふーん、とこっちはヒマなので、
作っているところにアイデアをとばかり
病名・死因なんかを連呼すればいいので゜はとなり
「くも膜下出血」なんかどーだとばかり
「そーらは、夕焼け、くも膜下・・・・ダーイオージョー」
などとほざいて、ワハハハハ、どーだどーだ
いいんじゃないかとなったが、
こんなのダメダヨと即、冷たくマントは言った。
確かに、抗議がきて、放送禁止になるのは間違いない。


合田佐和子展

朝日新聞にのっていた展覧会告知は、遅すぎて、とうとう最終日。
自分の原稿上がらないが、これは行くしかないと、渋谷の松濤美術館。
会場にはいって、お客にビックリ。みんな濃い。
絵描きや絵描きを目指している若者といった風。
かつてゾンネンシュターン展を見た時に似て、作品が人を呼ぶ。
その人のアンテナがキャッチしたという感じで、
美術館につきものの、文化オバサンどもが居ないのは実にイイ感じ。
みんなシンとして、息を呑んで見入っている。
この静けさ、実に素晴らしい。
文化オバサンたちの酷さは、絵の前でガヤガヤ話し
「うちの娘が最近どーしたこうした」など、茶飲み話をやりながら
ゾロゾロ歩いて行くのは、展示に対し実に無礼千万なのじゃ。ぷんぷん。さて、
作品は、合田さんの初期から現在までを網羅してる。
初期の、立体。針金をグルグルまきにした人形。
顔が人で体が蛇的な巨大オブジェ。
山頭火の句にイメージして描いた版画の、その欧州風な世界。
コピーの影に細密画の模様。曲線による自動速記。
ポラロイドの連続画像。箱のなかの貝とドクロのコラージュ。
タツノオトシゴの写真の影と形態の変化。
そして「唐十郎・四角いジャングルで唄う」のレコードジャケット原画。
このアルバムこそ、初めて「マンガ少年」原稿の
打ち合わせした晩、唐さんの話で盛り上がり、このアルバムを持っているという
編集者宅に行き、聞いた想い出のシロモノなのだ。
目玉シリーズ。そして六十年後半の気配する絵画。
シュールにして気品があり、影への描写の神経。
実に、堪能。そしてこの美術館、絵画をながめながら
ソファアでコーヒーが飲める。フーンとしみじみしていると
そばに座っている白髪の緑服の初老のご婦人。
それは合田佐和子さまでした。
「うう、家から画集持ってくればよかったなあ。
サインがもらえたのに」と思いつつ、遠巻きに眺める。
この展覧会用のカタログはすでに売り切れで
一冊の見本本を、みんな欲しそうにながめていた。
ああ、誰か、2冊買った人居ませんか。
私に一冊、ゆずってくださいいい。
合田佐和子宇宙。素晴らしいの一語でありました。


十一月二十四日


血管の無い石たちよ

ずいぶんまえに
「オーロラ放送局」のなかで、聖家族教会の
今行われている建築は、あんまりに酷いから中止したほうがいいと
僕は描いた。あのあとも、何度かバルセロナに行ったが
行くたびに、その酷い形がドンドン建っている。
まるで、ハリボテのような、死んだ生命感の無い柱や天井
あんなものの、どこがガウイディだ。
グエル教会の、地中の筋肉のような柱。
あれこそ、ガウディのフォルムだ。
いくら僕が怒ったところで、不様な柱や形は建ち続け
この間、国営放送で、「ガウディの形」とか言って
このコンピュータ計算のようなフォルムたちを、
無批判で垂れ流していた。
ホンモノあとをニセモノがついて回り
狂気の天才のあとを、夏休みの宿題製作がついてまわり、
ああ、まったく、たまりません。
才能を、継承することなんて、無理なんだ。
無理だからこその、突出感が
カタルーニアの空に突き刺さっている。


友之助爺さんの残したもの

親戚は骨董屋をしているが、そこて゛オバチャンが
「博、ホラ、こいづ、ナンダか判っか」と見せたのが、懐かしいもの。
それは、割出町の家の茶の間、コタツの上などに在った眼鏡。
虫眼鏡の筒のようなもので、友之助じいさんが、
これで新聞などを見ていた。だが、
この直径7pの円のレンズ、おばちゃんが言うには
これは、進駐軍かなんかの武器の、
覗くところのレンズだという。確かによく見れば、
回転してはめ込むように
ネジ巻きの渦が側面についてる。
ふーむ、増村家に伝わるおかしなオブジェよのうと、
それをもらってきて、今、仕事机の上に在る。
約六十年、三代に伝わる家宝じゃ。


楽な道

お風呂に入って、本読むのが好き。
でも、いい本は濡れて、グシャルので
どーでもいい雑誌とかで読んでたら
なるほどと、思わせる文章。

欧州や米国では、子供は大きくなったら
家から出されて、独立させられる。
金持ちであろーが、追い出される。
ところが、日本は、大人になっても親元に住んだりする。
そして、子供に、苦労させまいと
親が、子供の前に立ち、楽に歩けるようにしてしまう。
しかし、本当に親が成すべきことは
子供を放りだし、子供がキツイ道を歩き
その、キツサに耐える根性を持たせる為に
親に何が出来るかを、考えるべきだ。

ふーむ。18で高校出ていらい、ヒタスラ自力で
生きてきた拙者としては、嫌でも、
親にたよらずにやって来たが
いざ、自分が親になってみると、
放り出すつーのは、難しいのう。
可愛くて可愛くて、タマランヤツラだからなー。
子離れ、難しいものだ。


地震の国のブーフーウー

ブーフーウーブーフーウー
3匹の小豚。
と、歌にうたわれた彼らだが
マグニチュード8の大地震などにあうと
ブー兄さん、ワラの家だから、つぶれても平気
フー兄さんは、木造だから倒壊して、怪我。。
そして、ガンバリ屋のウー君は
レンガの家が崩れて、圧死。


ニセ・チラに遭遇

我が家の回りには、とうぜんのごとく
どこかの猫たちがうろついている。
フータとかチラベは我が家の猫だが
フータに似た長毛の猫は、「ニセ・フー」と呼ばれ
子供達の会話を聞いてると
チラベに似た「ニセ・チラ」というのも居るらしい。
数日前、物置の掃除してる時、家の前を見たら
タタタタと、チラベが走っていく。そしてこっちを見た。
そのシッポが大きくなっていて、
「おい、チラベ、何、興奮してるんだ」と俺が言う。
それから、「あれれれ、チラベのシッポ
あんなに長くないぞ」と気づき
ああ、こいつがニセチラか。
ほんとに、よく似ているなーと感心した。
首輪してるところをみると、ここの飼い主もまた
俺んちの猫に、「ニセなんとか」とかつけて居るのだろうな。


十月は龍勢の月

テレビのニュースでチラッとやっていた。
あらら、もう終わったのか。見たいと思ってたのに。


賢治年表のミスと、賢治展の瞳

筑摩が出した賢治の校本は、現在第二期のものだが
七十年代に出された一度目のやつの、年表には
重要な日付に、実に奇妙な誤りがあった。
「これは変だ」と私は思い、調べることになった。
そして、ほかの資料の証言により、私の時刻表説は
完成しなかったのだが゜、それでもなお、年表の期日は
どーもおかしいのだと、賢治研究本に書いた。
その本が出たあと、香港に漫画フェアとかで私が行って
帰ってくると、留守のあいだに「入沢康夫さんから電話があった」と言われ
こちらから電話してみると、「貴方の説は、正しいです。
どうしてこんな重要な日のことが、今まで、こんなミスを
していたのでしよう。貴方の指摘で、現在進行中の
新しい校本の年表部分は、検証し直しです」と言われ、
とにかく、私の説が正しかったのが嬉しかった。
それは、あの有名な「青森挽歌」の書かれた晩、
賢治はどこに居たかということ。
校本では、大正12年七月三十一日の夜から
8月一日の朝にかけて、「青函連絡船に乗っている」とあるのだ。
「そんな馬鹿な、賢治はその時、青森に向かう列車に乗っていただろう」という
誰もが思う疑問。しかし、この堀尾青史氏編の年表は
堂々と深夜に賢治を船に乗せていた。賢治はふたり居たことになる。実にミステリィ。
そして、入沢さんは、私の説の正しさを、入沢さんの資料によって
ほかの研究誌に載せてくれた。
その夏のこと、東京で大きな賢治展があり、「雨ニモ負ケズ」の手帖が
展示されるというものだつた。このころ私は、けっこう忙しくて
生原稿などそれほど興味もないので、行けたらいくべと
思っていたが、やっぱり見に行った。
仕事のさなかの徹夜のまま、無精髭で、汚いヨレヨのTシャツに短パンでサンダル。
相当汚らしい格好なのだ。見たらさっさと帰るべと
展覧会場に行くと、「本日、入沢康夫講演」とあり
「予約者のみの受講」とある。「そーだ、文章のお礼言って行こう。ついでに講演も聴けるかな」と
会場の人に、「ますむらといいますが、入沢さんに、お会いしたいので
取り次いでください」と言うとまもなく、入沢さん出てきて、
「丁度いいところに来ました。今日は貴方の発見についての話です。
聞いて行ってください」ニャアア。
そして、会場で、講演が始まり、話の途中、「みなさん、ここで
この話のますむらさんを紹介します。」、ええっ。シブシブ立つ私に
そそがれた目。
無精髭、徹夜でボロボロ、きたないシャツ、サンダル。
「なんだ、こいつがかよお」と、どこにも、畏敬の視線などない
それはそれは、侮蔑に近い視線を浴びまくったとさ。
めでたしめでたし。


チビッコ・ギャン

米国製のテレビ番組。僕が小学生の
高学年のころにあったもの。
スパンキー、ブッチ、アロファルファ
個性的なキャラクターたち。
「ステージで口笛吹くのに、
裏でレコードかけている」というの覚えている。
レコードが同じところを回りだし、
ヒュヒュヒュと吹き続けたアロファルファがダウンするやつ。
さて、このクゾガキどもの番組のことを
突然思い出したのは、
イギリスのクソガキたち十三歳が
親の持っていた「バイアグラ」を学校で呑んで
騒ぎになったというニュースを見たからだ。
なんだか、アロファロファが、早々に効く感じするぞ。


増村に会う

増村という名字は、珍しい。
ネットで検索すると、パラパラと出てくるが
今まで、増村という人と出会ったことはなかった。
ところが今回の横浜・八丈フチボール大会のメンバア表のなかに
増村とある。試合の最中、「おおマスムラーこっち」などと言われると
落ち着かない。どいつなんだろと思っているうち試合も終わり
そのあとの宴で、「ねーねー増村つー人に会わせて」となった。
「こんにちは、増村です」「あっ、どうも」と
増村同士の会話となったが、僕の質問は
「貴方の故郷つーかお父さんは、何処の出身ですか」というもの。
僕の爺さんは、「新潟県の村上」なのだが、
目の前の増村くんの答えは、どこかといえば「新潟県の南の方」。
やはり予想するものだった。
この増村族のルーツをたずねると
確か、新潟県・南部あたりという話を聞いたことがある。
遠い先祖は、同じ村の出なのかもしれない増村くん。
しかし、彼はそうした話に「あっそーですか」と
涼しく、実に奥深い奴であった。
十月二十五日


踏んだり蹴ったり

昔、月一でイラストを掲載してた雑誌。そこから
あるとき電話がはいり、「イラストを数点、紛失したので
お詫びしたいとあり、川間駅まで車で行き
駅のロータリーに二十分ほど止めて、
喫茶店で、編集者のお詫びの言葉を聞きつつ
ナンダヨー、そういうのって、紛失に対しての
謝罪の言葉ダケなのかよーと思いながら、
ハーアと呆れてロータリーに出ると
、車の前に、見事な駐車禁止のワッカがハマってた。
ああ、原稿無くされて、その上、駐禁の罰金かよお。
泣き面に蜂とはこのことだ。家に帰って、ワッカの前で
泣いているところを、妻に撮影してもらいました、。


テレビ的読書

私はテレビ「チャンネルを「回す」世代である。
ガチャガチャと、回すのである。昔は回しすぎで
チャンネルの中が擦りへって、とれてしまったので
ペンチで回していた。
そんな風にテレビを見るので、今のリモコンは
押しまくりで、バラバラと画像が変わる。
ツマラナイ番組ばかりなので、散々回したあげく、
「かー、ツマンネエエ」と気持ちよく切る。
そして、寝る前の布団のなかで読書となるのだが
布団の回りには、本たちが土嚢のようになって重なっている
みんな、読んでる途中のとこで開いてあるので、
まるで日本家屋の屋根のようになっている。
読んでいるうち、飽きると、ほかのを読む。
そんな風にして、たくさんの屋根がならび、そこに
また新しくきた奴が、突如として面白かったりすると
一気にノノノノノ読み終えて、本棚に入れるのです。


入れ墨
日本人にとって、入れ墨つーと極道方面を連想させるが
外人には、そうしたイメージがないせいなのか
サッカーの選手なんか、アンリとかベッカムとかやっている。
で、アンリは漢字を彫ってたけど、どうやら海外では
漢字を彫るというのが、流行っているらしい。
しかし、意味など知らずに、形で選ぶとか、
そうしたノリで彫ったりするので、たとえば、
「台所」と、彫った奴とか、居るらしい。


合コン
あれは、高校一年生になって一ヶ月くらいの時だった。
二浪して入ってきた舟山くんが、とうぜんのごとく
クラスの別格の位置につき、グループが形成され、私もそのなかにいた。
そんな五月のこと、彼が、提案した。
「クラスの女子数名と、合同で、日曜日に、親睦を深めようじゃないか」
そして、女子達もイイヨとなって、ほんじゃ、何するんだーとなったのだが、
行った先きは、ナデラ山の下にある愛宕神社の広場。
そこで、芋煮会をやったのだ。なんか、素朴だよなー。


誰か、解決法、知りませんか

我が家では、20匹くらい、今まで猫を飼ってきたが
こんなに、参った猫は、初めてだ。
それは、雄のチラベの、スプレー行為。
去勢すると、この行為は無くなるのに、例外もあるらしいが
チラベはその例外なのだ。家中、ぶっかけまくられている。
仕事場は出入り禁止。ギブソンのギター、ケース、壁、本棚と
まきまくり、ほとほと参りました。
こうした、去勢したのにスプレー行為をやめない猫
どうしたら、反省させることができるのでしょうか。
誰か、知っている方、おりましたら、御一報を。


灯り

仕事場の天井に設置した蛍光灯六本。
相当、はじめは明るかった。始終つけているので
ダンダン切れてくる。それでも交換しないでいると
三本。ちかごろこの線でいっていたが、、
とうとう、一本になつた。相当暗い。しかも、スイッチ入れても
グロウランプも古くて、しばらくつかない。
燈台元暗しどころでない。紺屋の白袴どころでない。
ただのずさん。やっとことりかえ、四本。くー、明るい。


米沢で子供が転ぶと

米沢で、昔、子供が転んだりして膝ぶっけたりして
泣き出すと、大人は、そのすりむいた膝などを
なでたりフーフーしたりしながら、言うのだ。
「痛いとこ、痛いとこ、山形さ、飛んでいけー」
そう言われると、何だか、痛みが薄れたようになるのだったが
ある時、そんな風に言われつつ、俺は思ったのだ。
「痛みの飛ばされた、山形市は、どうなるのだ、迷惑じゃないのか」
なるほど、俺は、少しつづ大人になってきたのだった。


ガーデン・ブームとオリーブの木

九七年の秋、隣の土地約百坪を買って、庭にすっぺと毎日セッセと
レンガを埋め数十メートルの道を作り、穴掘って池を作り、ブロックで壁を作りコンクリート塗って
そこに、ガウディのように、色タイルを割って、それを張り、それから
あちらこちらに、毎日のように園芸センターから植物を買い、
それをエクシブに無理矢理乗せて運び、植えては移動し、また植えて
あんまり大量に植木を買ったら、「旦那さん、業者の人かい」とおばさんに聞かれ
こうして、庭は、もはや植えるところ無い状態になり、それから時が立った。
あれから六年、我が家に吹き荒れたガーデンブームは去った。
この夏、庭に行ったのは、一度か二度。
冷夏で雨ばかり降っていたら、芝生は見事に枯れ、
そこに、管理者が来ないのをいいことに、雑草がエヘンエヘンと威張っている。
夏前までは、妻がセッセとやるのだが、夏になるとカマキリがアチコチで
ヘラヘラと動き、カマキリ大嫌いの妻は、庭に行かなくなる。
そうして庭は、ハサミで切りまくる管理者の居ないのをいいことに、
のびたい奴はのびまくり、まるで密林のように、自然な気配を抱えて居る。
あれは、まだ私が゛庭造りに気合いのあった二年前2001年の五月のことだった。
芝生のところに植えて、三年目を迎えたオリーブの木。その緑の葉が
濃く開いて、奥の景色が見えなくなる。五月ならまだ植え替えの時期の
ギリギリだと、その木を根性出してスコップでニチニチ掘りヤットコ引っこ抜き、
奥のレンガ道の脇に移動した。そして、夏になったら根づかつ、見事に枯れた。ガックリきた。
だが、木ちゅーもんは、葉落としダメになったかに見えて、中は生きていることが往々にしてあると
期待し翌年の春が来てみると、やはり木の葉は咲かず、枝の先を折ってみると
中は枯れている。あー、ダメだなあ。そして今年の春、やっぱり枯れたまま。
白っぽくなった枯れ枝だらけのオリーブの木。このままで倒れるまで
ほっておこう。もう、庭師ひろしは、ズザンの態度で、庭にも行かず
冷夏の夏もすぎて、二日前、なんのきなしに庭に行くと
オリーブの幹から、木の葉が吹き出している。
なんと、木は生き延びていたのだ。まる二年の枯れ木状態から
こうして生き延びることをさせたのは、
すべからく私の庭師としての怠慢のおかげだ。
もしも、庭造りに夢中のころだったら、せいぜい一年くらいしか
枯れ木状態にして、あとは我慢できず抜いただろう。
愛が冷め、放置したことによって、木は蘇ったのだ。
庭師の極意は、放置することなり。デタラメと極地は反対側から出会う。

十月八日


線条痕

去年、名古屋の銀行強盗で捕まった男。
九七年あたりに大阪で起こった連続の銀行強盗の
撃った銃の玉に刻まれている線条痕が
九五年に、八王子のスーパーで、女子店員と女子校生の3人が
頭を撃たれて死んだ事件の、弾丸の線条痕と
一致した、というニュース。
あまりに残酷で、犯人がつかまらず
残虐性から外人説とかあったのに、
はたしてこの、七三歳の男が犯人なのか。
しかし、気になるのは、九五年に起こった事件の
2年後に四件もあった銀行強盗のさいの銃の弾丸。
どうしてその時期に、この一致が騒がれなかったのだろうか。
なんでイマゴロ、一致などというのだろう。
すでに、当時一致して、それを警察は隠して捜査していたのなら
わかるが、最近、一致したなどというのなら、
怠慢な科学捜査ということになるのだが。

十月七日


奇妙なスタジアム

ジュビロ磐田の藤田が行ったオランダのユトレヒトというチーム。
深夜、そこのウエハ杯の試合を流していたのだが、なんとなく見ているうち
変なことに気づいた。スタジアムの赤一色のギッシリの人たちが、
動かないのだ。よくみるとまったく動かない。しかも通路を行き来する奴が一人も居ない。
変だなあとよおくみていると、沢山のサポーターが立ち上がっている。た゜がそれは
パネルに写った写真なのだ。なんと、座席にはパネルが立てられ
ゴール裏もパネル。観客なんかどこにも居ない。
そこで試合は行われ、まるで練習風景のように、シーンとした会場に
選手の声とボールを蹴る音が響いてる。そしてスタジアムの外から
もうもうと赤い煙が上がっているのだ。
サポーターたちは、どこにいるのだろうか。
ゴールした瞬間、カメラが切り替わり、どこかの体育館のなかで
真っ赤なユニホームたちがワーワー騒いでいた。
どうやら、前節にスタジアムになだれ込んだサポーターへの
ペナルティとして、観客無しの試合となったらしい。
それにしてもパネルの並んだ座席ってーのは、異様にもほどがあります。


カッコイイってショボイ

「仁義なき戦い」シリーズを見だしたのは
八十年代。深夜のテレビやレンタルビデオで、見た。
なにが、参ったったって
金子信雄が演じる「山森」親分。
情けない、汚い、惨め、ズルイ、いろんな侮蔑語を
浴びせても、ニッと笑って生き延びる凄さは、感動ものだ。
「ヒロノー、頼むよお、ワシャ、お前の親ぞ」
菅原文太が演じる、ひとつ前までのカッコイイやくざは
山森親分に、いいようにあしらわれ、刑務所に入ってしまう。
出てきても、邪険にされ、まったくもって
カッコイイなんて姿は、現実の暴力団社会では、意味を成さないことを
山森は、痛烈に、僕に教えてくれた。
それは、学校では教えてくれない、「社会勉強」だった。
大人とは何か、組織とは何か、みんな山森さんが
教えてくれた。諸君も大人の味、味わうべし。


老人は情報を聞かない

「おれだよ。おれ」と突然、知らない家に電話して
孫や息子を装い、やくざの車にぶつかって今しめられてるとか
彼女に子供できたとかいって、何十万の金を口座に振り込ませる
通称「オレオレ詐欺」。脚光を浴びて数ヶ月、
もう、こんな詐欺に引っかかる奴は居ないと思ったら、まだまだ
続行中で、もはや六百件近く、三億五千万近い被害とな。
なんというとだ。老人は、情報を、聞かないのだ。
だが、それだけだろうか。
「おれだよ、俺」で、「ダレダレかい」と聞いてしまう程、
実は、普段そんなに交信していないのでは、ないだろうか。
思わず、アチコチに「おれだよおれ」と、実験電話したくなるのは
野次猫の血かな。


柏鵬時代

昭和三十年代、相撲は柏鵬時代と呼ばれ
大鵬と柏戸の二横綱が人気を分ける時期があった。
「巨人・大鵬・卵焼き」と、子供達の好きなモノの
代名詞にうたわれ、強く二枚目の大鵬は人気者だったが
我が故郷、山形県では、柏戸の生地の為
柏戸こそ、県民の愛する象徴で、絶大なものだった。
千秋楽での大鵬戦なんか、町の通りに人が居ない状態だった。
だが、私は、泣きそうな顔の柏戸が、嫌いだった。
がーっと突進して、勇み足をする間抜けさが、嫌だった。
家の中ひとりで大鵬を応援するので、我が家のばあちゃんからは
「博は、そんぴんだづなあ」と言われたが
大鵬が優勝して横綱になる時
柏戸も、優勝してないのに、一緒に横綱になった。
子供心に、納得できないぞ、変じゃないかと思ったこの年が
昭和36年なのだそうだ。つーことは私は小学三年生。
なるほど、想像以上にガキのころから
ヒネクレのキンクス野郎のソンピンたかりだった。感心感心。
大鵬32回・柏戸5回の優勝とな。うーむ
FC柏戸バルセロナじゃのう。


自己愛

個室で鏡を覗いて
うっとりしている、その瞳に
巻き込まれたような、恥ずかしさ。
ううむ、ナルシズムだからこそ
段に登れるのだろうが、
かっこいいと、恥ずかしいとは、紙一重。
主観と客観のへだたりのなか
自己愛とは、かくも
きどい匂いが、瀧の如し。


妄想「シャボン玉ホリディに、ボブディランが出たら」

車のなかで、ディランの「レイ・レディ・レイ」を聞いていると
リズムを刻んでいる金属音が
アルミ製の弁当箱を、箸で叩いている、ような感じがした。
その瞬間、妄想が起こった。
学校の教室のなかで、高校の学生服を着たハナ肇が
ガツガツと弁当を食い、そしてカラになった弁当箱を
箸で、「コンカカッカ」と叩きだすのだ。すると
窓辺で、学生服着たディランが
「れい・れでい・れーい」と歌い出す。
モオオオオオオオ。
「ボブ・ディランだよ、ピーナツ」


コ゛ロニャン・トリビア

太平洋戦争の開戦開始の暗号
「ニイタカヤマノボレ」の
ニイタカ山は、・・・・
台湾に在る

ヘエエエエエ。
しかし、この暗号。子供のころ聞いたときから
「ニイタカ、山登れ」と聞こえるので、
「ニイタカ」が、゛「新鷹」に聞こえ、
新しい鷹が山に登れと感じだ。


混じり合った匂い
フィルスペクター版「レットイットビィ」が
ポール版の最新技術で、どんなアルバムの音になるか、
私は、あんまり期待していない。
「イエローサブマリン」のアニメ盤として、新しくミックスダウンされた
アルバムが数年前に出て、そのなかの
「ノウウエアマン」や「オールユーニードイズラブ」聞いた時の感想。
あまりに、クッキリと音が聞こえ、それは、他のラインの音が
ピタッと消えて、残音の無い、クリアさ。これが
なんとも、気持ちが悪いのだ。レコード針が再生したアルバムの音には
ピタッと消えない、混じり合った音の気配があった。
あれは、匂いだ。
あの匂いの消えた、スッキリ感の曲は、まるで別な曲に思える。
ノウウエアマンなんて、音のパーツに分解されて、聞こえる。


方言だけが、入ってくる

米沢弁で育った私が、
すっかり、忘れていた言葉に、最近出会った。
それは、ちっとも通らなくなった通りを
歩いてて、十字路をムズッタ瞬間、ホロッと出会ったような
そんな感じで、現れた。その言葉は
「ほんきこ」というものだった。
「本気」という言葉に「こ」がついただけで
言葉は、ズブーンと、私の胸を直撃した。
「ほんきこ」という言葉を聞いた時代の自分に
その言葉が、連れていくのだ。
「ほんきこ」になってやらなければ
その橋は、渡れないのだと、
あの幻の橋の前に、連れていかれたのだ。
橋の前で、私は、「霧にむせぶ夜」を描いた。
「青猫島」を描いた。
「ファンタジーゾーン」を描いた。
みんな、ほんきこ、だった。
いつのまにか、本気という言葉はあっても
あの言葉は、居なくなっていた。でも
「ほんきこ」が、居続けたら、たぶん
一切が燃えてしまう。
あれは、私を撃ち殺す銃なのだ。


禁断症状

煙草をやめて、まもなく一年になる。
飲み屋で、煙草吸いたちと飲んでいる時、
最近、不思議な動きに気がつく。
「微妙な早送り」のような動きをする瞬間があるのだ。
それは、禁断症状のあらわれ。
そうか。脳が、ニコチンと叫んだのだ。体が反応したんだ。
昔、しょっちゅう、あの叫びのなかにいた。
退院した視線で、昨日を見ている。

一日3箱・七五〇×三六五。約二十七万円。


不眠の限界

15時間ほど、机に向かっている。
漫画家の追い込みともなると、眠ったら原稿が落ちる状態になると
眠るわけにはいかず、起き続けるのだが
私の場合、三十八時間くらいで、嫌になり
「締め切りなんか、どーでもいいもんね」と、なった。
最近は、こんな風に、眠れない追い込みなど、まずヤラナイが
昔はそんな風にして、二十四時間越えても、机に向かって
レロレロになりながら、茶の間に行ったりすると
普通の女房なら、「ああがんばってね。貴方、シッカリ」などと言うだろう。
ところが、我が家の妻は、自分の原稿締切ともなると
ギリギリで上げるのが得意のため、一度、
六十五時間、という不眠記録を作っているので
「まだまだ、甘いぞ」と、涼しい視線でゴザルのだ。
まあ、この狂気の六十五時間の原因は、締め切り前夜に来たアシスタントが
描いていった背景が、あまりに狂った絵で、そのことに気づいたのが
大量に描かれた後、そこで、それを修正する為に、
寝られなかったに輪を書いたのでした。それにしても
六十五時間、越えられない壁じゃ。


スペルとカタカナ

UEFA杯を、ウエハ杯とカタカナで打ったら、
なんともショボイ。しかも
「ウエハ、ヘンチョコリン、ヘンチョコリンのドンプカドン」
などという、昔デレビで大ヒットした
洋物ギャグ番組「三馬鹿大将」のテーマが浮かんできた。
ほんとは、「ウーヒーハー」だけど。


耳を疑う
米沢四中時代。当時、サッカー部は無かった。
だが、俺は、サッカーにとても興味があり、体育の授業で
サッカーがあるつーので、図書室からルールブックを借りたりして
楽しみにしていた。あんとき、キーパーを菊地くんが
やったと思う。で、サッカーの授業が始まり
クラスの男子が二つに分かれて試合となったが、
ボールをキャッチしてうづくまったキーパーに対し、それでも
回りのヤツラが、そのボールを蹴ろうとして、キーパーの腕とか
バスバス蹴ってる。
「キーパー・チャージだぞ、」と、ルールブック読んだ俺は
先生に言った。その瞬間、体育教師はこう言ったのだ。
「逃げないキーパーが悪い」。
耳を疑った。
バレーボール専門だった体育教師だからといって
サッカーのルールに、これほど無知でいられるのが
当時の、のどかな時代なのだろーが、それて゜もヒドスギル。
この言葉を聞いた時、「これが、教師かよお」と、呆れ返り
すでに、心は卒業してしまったのさー。


ベンガル虎

イラクの動物園に、酔っぱらった米兵が入り、
虎と一悶着起こして、虎を射殺とニュース。
動物園って、世界中から、無くなればいいと思う。
象は、インドやアフリカでしか、見られなくていいのだ。
人間のこの星への横暴の、象徴のひとつが、動物園。
そして、横暴のカタマリの米国の兵士が、
虎を射殺するなんて、あまりに「横暴の型」にはまっている。
空爆を生き延びたのに、ベンガル虎、無念です。


個人言語

ウッディアレンのドキュメントでアチコチに写っているのは、
彼の孤独だ。孤独が、何かを創らせている。
賑わいの宴は、一瞬だけ。
ダラダラと続く宴は、孤独を痛感させて
個人だけの言語を、頭イッパイにしてしまう。

賑わいは、いい。
でも長くは、居られない。
笑顔は、いい。
でも長く、笑ってはいられない。
一瞬の為に、長い残りがある。


自己責任

阪神優勝で、道頓堀のコキタナイ川に飛び込んだ数が
五千三百人以上と発表。よくこんなに飛んで、溺死しないなーと思ってたら
昨夜また飛び込んだ者の一人が、押されて落ちたとかいう説があり、死亡した。
酔っぱらっていたのか、押されたのか、ハッキリしないと判らないが、
こうして一人死亡することによって、ここの通りの商店街の人たちが
緊急会議を開いていた。「どうやったら、道頓堀飛び込みを、止められるか」。
だが、変じゃないか。これって、とても日本的じゃないか。
「飛び込みたけりゃ、飛び込んでも、いい。死ぬか生きるかは
本人の責任だろう。」
この国には、自己責任は、育たないのか。
「電車が来ます、白線まで下がってください。次ぎの駅は、ナントカです。
川は危険ですから、飛び込まないで下さい。死亡者が出ました。この川の
管理責任は、どーなっているのでしょう。」。どーもこーも無い。
飛び込むのは、その人の、責任なのだ。


長井・すいいと・長井

米沢の北西に位置する長井市は、母の実家のある町。
母は双子で、よく似たオバチャンは平山の農家。子供のころ、
夏・冬・六月のアヤメ祭りの三回、泊まりに行くことは、最大の楽しみだった。
二つ上の義則ちゃんや、一つ上のトシボウちゃん、同じ年のリエコちゃんと遊びまくった。
長井は、水が綺麗だ。小川を見ると、沢山の水草が川底を包みそうした風景は
米沢では見られないものだった。真夏の野川に行き、ノヘーっとした水で
遊んだことや、平野小学校のプール。冬のこたつでのオイチョカブ。
ゴテンの文房具屋さんから、花作りを通り、平山まで、
子供の足で歩くのは、けっこうなもので、ホップの緑が高く延びている家が
見えてくるとうれしかった。
アヤメ祭りは、とても大きな公園の薄暗がりの雰囲気があり
夜店にならぶ紙鉄砲や、コロコロと回りながら落ちていく組立や
なんとも、胸ときめく品物たちの山だった。
高校生になると行かなくなったが、中学生のころは
ビートルズのシングル持って行ったりした。
長井は、僕の幼少の記憶の町だ。
じっと本気でながめたりしたら、いとおしくて切なくて涙が出てくる。


燈台元暗し

子供を乗せて車走らせていたら
CDから「レリビー」が流れた。すると子供が言った。
「この人、撃たれて可哀相だね。」
「違うの、コレはポール、死んだのはジョン。
イマジン唄ってる人だよ。」
「へー。しらなかった 。」
おお、なんてこったい。
君が三歳くらいのころは、私は
ビートルズ・コピー・バンドの時期で
しょっちゅう、家の中にいろんな練習曲が流れ
「カムトゲザ」のシュッという音に、合わせて
君はノッシノッシと小型怪物のよーに
体ゆすったりしていたのにねえ。
そして、なんたって凄いのは
ビートルズの写真みて君は、
「これは、パパのお友達」と聞いたのさ。



突発性行動力

伊豆に行く日の夜中、ふんふふふんと
準備していたら、子供たちが
「いーなー、とーちゃんばっかり旅行してよー
家族のことも考えろー」
「そーだそーだ、どこかへ連れてけー」などと言う。
「何いってんだよ、お前達の年になったらさー
親父と旅行なんか、いかねーよぉ、と言うのが普通だぞ」
と、いいつつ、子供から、透明な存在扱いされていない私は
内心うえっへっへっと思った。
「もう、友だちと旅行するという年齢じゃないの、誰かとドッカに行ってこいよ」。
すると、子供が言った。
「んー、じゃ、夜が明けたら、一人で大阪に行って
高校野球の決勝見てこよう。行ってもいいか。」
にゃにゃにゃ。
「行ってもいいけど、本気かよお」
「よし、決めた、行って来よう」
こうして、突発性の行動力は、
父から子へと、遺伝していたことが、証明された。
うーむ、それにしても、日帰りは凄い。
あとで聞けば、あまりにフランクなカッコウで
その辺の近所の子みたいな、旅だったらしい。


打ち水
昔、我が家が割出町で魚屋やっていたころ
真夏の暑い日、「博、水撒きしてケロ」などと
バーチャンに言われ、道路に水撒きしていた。
熱い道路をホースで撒いてると、通行人に
偉いねーとか言われ、けっこう張りがあったりした。
最近、車多いからか、あんまり見かけないなあ。
爺さんの盆栽たちが庭にならんでて、
水やりもされせられたなあ。


ゴジラの夏・モスラの朝
小学校時代、夏休みになると、許可映画が見られる。
新作のゴジラやモスラが、米沢の国際劇場にやってくるのだった。
上映時間は早く、朝の一番の奴は八時半くらいだつた。
なんでかつーと、朝の五時ころに、
オレタチは一番のりして並んでいたのだ。
イベントは盛り上がるにかぎると、朝早くにならんでいる子供達。
いったい何を話して時間つぶしていたのだろう。
やがて、ゴジラが始まり、金星に近づきすぎた日本人たちのロケットは
金星に吸い込まれ、そして、ゴジラより強いギドラが現れた時
国際劇場のなかは、シイイインとしたのだ。


夏休みの宿題
あれは小学校の時。
夏休みの課題に、なにか工作を作って
持っていく。誰かが海に行ったらしく、
貝を拾って、標本箱にしてきた。
どこの海岸か、種類もたいしてなく
いかにも、そいつが拾ってきたという匂いが
プンプンするそのわきに
デーンと、立派な貝の標本箱。
みんな凄い形の貝。綺麗だなあ。
キチンとしたその箱。だが、どうみても
そいつが海で集めたのではなく
海で買った標本箱なのだ。
みんな手作りの工作なかの異質さ。
九月の教室で、その反則技の
標本箱は、やがて、
誰かに、セロファン部分が切られ
それからダンダン日がたつにつれ
、なかの貝が少しづつ消えていった。


青山霊園
四十年ぶりに貸し出された青山霊園に
四十倍の応募。「一億払っても入りたい」という人や
現実の生活でいかにも高級地に住んでます的な顔たちが
死んでから住む場所として、その地を欲しがっていた。
へー。骨になってからも、埋められる場所に格差があるのか。
生きている時に、抱えていた価値観は、死後の世界まで
持っていくのだね。


戦争報道

「戦争の最初の犠牲者は、真実である」という記者の言葉。
広島・長崎の原爆投下後、占領軍は、米国西欧の報道記者の
現地入りを規制し、一ヶ月後に別々に二名の記者が
潜入して、地獄を見た。イギリス記者は、原子病と報道し
放射能の恐ろしさを初めて世界に知らせたが
もう一人の米国人の記事は、掲載中止。こうして
都合のいい場所だけを報道ツアーでみせ
原爆被害の人間達への接触をさせなかった。
米英軍の今回のイラク侵略で、フセイン像が倒される画像は
象徴的で、何度もテレビで写されるが、あのあと倒れた像に
乗ったりして騒ぐ民衆の顔は、米軍が間際に他国から連れてきた
親米のイラク人であって、バクダット在の民衆では無かった。
こうした人たちが喜ぶ画像は、十分に作為なのだ。
そうしたことは、日本の報道界でも判ってきたことなのに
今だに流れるのは、無責任の垂れ流しだ。
ベトナム戦争で、戦場のあからさまな残虐画像が流されたことによる
戦争反対運動の高まりを体験した軍部は、湾岸戦争では
報道の規制による都合のいい画像と、戦争とは無関係な
「油まみれの鳥」の画像などて゛、プロパガンダ報道をしてみせた。
たしかに、戦争とは、情報戦でもあるのだ。一切の嘘がでっち上げられる。
ジェシカとかいう少女兵士を、拉致されたイラク病院から救出する為に
師団が急襲し助けたなどという事件の本当の姿は、かなりの茶番だった。
敵の兵士はいないし、病院が鍵を渡したのに、部屋のドアを蹴破って
いったなどいうことを隠して、さも手際よく作戦が成功した風に報道するから、
この事件を映画化しようなどと、本国は盛り上がっていった。
こんなことは、太平洋戦争中の報道でもあったことだろうが、
いまだに、同じことが起こるのだ。兵士と国民を奮い立たせるための報道のでっちあげ。
疑いしか、残らない。戦争報道を含め、
一切の報道、鵜呑みすることは、出来ない。
いまだに、フセイン像の首が引きずられていくのを
靴で叩く子供の、あまりの映画臭さに、
「テイク・ワン・スタート」の声の、幻聴を聞く。


電磁波と狐

東北地方などでは、時々、祈祷師とかが
嫁に狐が憑いているとか言って
家族たちが、棒で叩いたりして、狐追い払おうとして
嫁さん死亡、などという事件があったりしたものだが
白装束のパナ研の建物内部で、四十歳の
大学助教授が死亡。打撲の後があり、調査。
電磁波を追い出す為に、棒で叩いていた、
という説が流されている。
電磁波と、狐の霊。科学と心霊現象。
これは、「化学と信仰は、ひとつになる」つーことか。
それにしても、理科に弱いと
死にますなー。


創造

物を作ることの、始まりは、
その者の、中から湧いてくる電波を
形にしているのだ。
湧いてくる熱を、形にすることで
内部にある火口の奥を
説得しようとしているのだ。
本人にすら判らない、火口の奥の。


夏休み・ゴロナオ版・推薦図書
「疑惑は晴れようとも」河野義行著・文春文庫
495円

松本サリン事件の被害者が、犯人にされていく、報道と警察の無責任な姿。
なんでもない被害者が、こんなに見事に犯人に仕立てられていく
その恐ろしさは、真夏の夜でも、寒くさせる。
冤罪に巻き込まれることが、こんなに簡単なのか。
何故、警察はこんな風に、見込み捜査をしてしまったのだろうか。
みなさん、是非、読んでみて下さい。
新聞も、警察も、そして日本中、流されていく恐怖を。


オワエナエ
ヨソの家に上がって、何か食い物が出され
遠慮していたりすると、
「ささ、おわえなえ」と昔、米沢では言ったものだ。
「おわえなえ」とは「食べなさい」という方言である。
なんでこの言葉が、ポカンと浮かんできたか、
それは判らないのだが、コレと一緒に別なことばが連動して
浮かんできたのだ。それは、
「わいない・さだきち」という人の名前だ。
和井内貞吉とでも書くのだろうか。
しかし何だ、この人。記憶のカケラでは
十和田湖に、鯉だか鱒だか、養殖した人じゃなかったかなあ。
まっ、それはあとで確認するとして
なんで、この人の名前が連動して浮かんできたのかが判った。
私が子供のころ、この「和井内サダキチ」という名を聞いた時、
なんだか「オワエナエ」という言葉がクロスして、印象深かったのだ。

検索。「十和田湖・鱒」で検索したら、和井内貞行。
サダキチではなくサダユキだった。
十和田湖への姫鱒の養殖に成功した人。国語の教科書にも載っている。
とあり、どうもそんな教科書を読んだような気がする。


視線の差
夏、フィジーに行った時、ホテルで新聞見てオヤと思った。
ボロボロになった実に惨めな服を着た日本兵士たちが、
頭を下げている風景。
そうか、今日は八月十五日。それにしても
なんと惨めな兵士の姿。日本の新聞にはけっしてのらない写真。
これこそ、戦争被害者としての南方の人たちの視線なのだ。


文書鑑定
殺人の容疑をかけられている男A。そして事件を
攪乱するために、誰かが送ってきたワープロの文章。
警察が、この文章と、Aの書いた他の文章とを
比較鑑定してもらう。助詞の使い方などで
人には癖があるらしく、それらの図表によって
ふたつはほぼ同じ位置に分類されてくる。
三島と司馬の文体での、助詞の多用さの違いなどを
参考図で表していた。
一見、納得できるが、果たして犯人特定というとこまで
確定していいんだろうか。他者の文体をまねることは
可能じゃないのかなあ。


世界市民

広島長崎特集のテレビ番組で、井上ひさしさんが
次ぎのような内容のコメントをしていた。
「広島・長崎の被爆体験は、人間が世界市民であることを
意識させる為の、装置なのだ」
米国人であるとか、日本人であるとか、
そうした民族的な視野を越える場所に立つ時だけ、
戦争を避けることが出来るのかもしれない。


映画「レット・イット・ビィ」の許可

ジョンが解散後、「レットイットビィ」の映画を観て
「泣いた」というコメントが残っているが、まさにグループが
分解している姿が写し出され、マッカートニーが
悪人顔になって、バンドに叱咤をくらわし
残りの3人がウンザリし、ジョージが怒り出す場面まで映っている。
それから、ずいぶんたって、この映画は、だんだ放送されなくなり
どうも放送も販売も許可が降りないという説がある。
許可をしない男が誰かは、あの映画を見れば明らかだが、やはり
一度さられだされたものは、さらけ出されるしか無いのです。


ホワイト・アルバム

冬に発売された。
駅前の名曲堂から電話があり、
「アルバム来ましたよ」。
高校生の私は、雪の夜の道、
歩く人が作った細い道のカリカリとかじかんだ中を
歩きながら「明日から発売」の前日に手に入れ
抱くように帰ってきたのだった。
ビートルズの曲には、季節がある。
「ラバーソウル」を買ったのは三月。
雪解けの滴がタンタンと屋根を打つなかで
聞いたのだ。


ハーデイズナイト

一九六四年から六五年にかけての冬。
小学六年生の私は、米沢の映画館、
国際劇場に、一人でこの映画を見に行った。
同時上映が「トムジョーンズの華麗な冒険」というもので
どうみてもガキの見るようなシロモノではなかった。
肝心のハーテ゛イズナイト。あんぐりとしてみながら
「キャントバイミイラブ」をまだ持っていなかったので
次ぎはコレ買おうつーくらい気に入った。そして、なんったってラストシーン。
空中に登っていくヘリコプターから巻かれたサイン入りのプロマイド。
「ああ、欲しい」
ほんとに、なににも変えても、欲しいものだった。
そして、映画館を出ると、雪の夕暮れ。
「毎日がビートルズ」の頭に唄う歌詞
「吹雪の夜に観たハーデイズナイト」
正確には、「吹雪の夕暮れに観た」です。


おお・バッテラ

バッテラの記憶が、
墓参りから連想されて浮かんできた。
私が米沢にいたころ、マツノ婆ちゃんは、冬とか夏とかになると
大阪の娘さんちに、1・2ヶ月行って停泊するのだが、帰ってくると
急に朝食は食パンなどを食い始めたりするのだつた。当時
朝は食パンなんて、ハイカラだったのだよ。さて
この大阪からの帰宅の時、たいてい買ってくるお土産がバッテラだった。
昆布に巻いた鯖の棒寿司である。魚嫌いだった私なのに
何故かこのバッテラだけは、好きだったのだ。
そして、高校生のころだと思うが、夜に米沢に帰ってきたバアちゃんは
仏壇に、バッテラをあげて、「明日食うべな」と寝たのだが、
待てない私は、寝ているばあちゃんのそばで
包丁持って、そおおおっと仏壇からバッテラを取り出し、一切れ、二切れ
食ったのだ。んんんん、んめえ。


墓参り

墓参りの、一番古い記憶では
米沢の六部の道を右折してタカゼンの前を行ったあと
左折して細い道を、田んぼのなか行くと、お墓群があり
そこにいくのだが、墓碑名は、増村ではなかった。
よその墓に、うちの骨は間借りしていたのだ。
はて、誰の骨なのだろうか。友之助じいさんは
まだ生きていたような記憶があり、すると、
たぶん、早死にした叔父さんにあたる人、ではないだろうか。
墓参りは、夕暮れ、提灯つけて行った気がする。
そして、お墓で楽しみだったのは、家で作って持っていったジンダン団子。


夢のなかで逢いたい

えぶりでい・あいはぶ・ざ・ビートルズ、の部分を
「毎日、ビートルズばかり、聞いてた」と唄ったら、そのあとの歌詞が
もう一度、始めに唄ってたころみたいに、起きてきた。
そして、中学や高校で、「夢の中で、逢いたい」と思ってたことを
思い出した。当時一度だけ、夢のなかでコンサートを見て
それから、「こんなに好きで、毎日聞いて、想っているのに
どうして夢のなかに出てこないんだろう」と不思議に思い
悔しがった。
「眠りのなかで、逢いたかった。」は新しいサビの歌詞を生むだろう。


脱脂粉乳世代

戦争に負けて、七年後に生まれた私は
小学校の給食で、脱脂粉乳というやつを飲んだ。
私よりあとの世代になると、牛乳が出たし、確かに六年生のころには
テトラパックの三角牛乳も時々出たような記憶がある。
さて、この脱脂粉乳の味なのだが、
今となって、どんな味だったと聞かれると
ずいぶん多くの人が「あれは、マズかった」と答えることに、私は驚く。
私の記憶では、クラスで、あの脱脂粉乳を飲まないヤツは2名いたのだが
ひとりは金持ちの自転車屋の子と、もうひとりは私の親戚。
この二人は、断固として飲まないので、ヒステリックな女先生などは
飲むまで、許さないと席を立たせず、二人は脱脂粉乳と睨めっこしていた。
そんとき、私は、どれほど「もったいないなー、俺、飲んでやるよ」と
叫びたかったか。
脱脂粉乳は、ンマかった。少なくとも、まずくて飲めないなどという舌を
私は持っていなかったし、多くの子らも持ってなかったはずだ。
何故なら「牛乳」は安価なものではなく、病気になると薬として飲める的な
そうした貧しさの時代だったし、
私は、近くの下駄屋の子のところに遊びに行き、楽しみにしていたものは
「砂糖・湯」だったのだよ。私より六個上の親戚なんざ、松ヤニ食ったことある、つーくらい
ガキドモは、十分腹を空かしていたのだ。
我が家は、魚屋だったから、食い物に不自由ではなかったが
それでも、脱脂粉乳がマズイなどと、ほざく程、舌の肥えた生活ではなかった。
今になって、「よくもあんなもの飲んでいた、私はマズイのを我慢して飲んでいた」などという
発言の多さに驚きながら、私は正直に舌の声を忘れない。
脱脂粉乳は、ンマカッタのだ。


裏打ち

ジプシーキングズの「バンボレオ」がヒットした時、途中で
こまかな手拍子が入るのだが、私はあれが
一人の人が叩いているとばかり思い、なんとも細かな手拍子だと
曲に合わせて、必死で奮闘しながら手首が追いつかず
さすがジプシーの民は、手首が凄い、などと頓珍漢な感動をしていた。
やがて、あの手拍子が、基本的に、二人の人が、交互に叩いている為に
非常に細かなリズムを刻むということを知り、またもや感動した。
でさっそく、難しい裏の方を打つことに挑戦したのだ。
リズムで、最初の手拍子が表役であり、この表の役の打つリズムの
その間に入ってうち続けるのが裏。
ということで、バンボレオをかけながら、裏を叩くが、すぐに表に引っ張られる。
これは、簡単に出来るものではない。当然、何度かやって、降参となったのだ。
あれから、何年もたち、我が家では、最近、
メトロノームの表の音に対し、さかんに裏の手拍子を
とっているのは、家人です。
タイコ叩いていた人でも、相当難しいこの裏打ちの技術、
果たして、その手に捉えることが出来るか、
「一晩中、響く、手拍子は、血液の歯軋り」的な、野田の家在ります。


戯ける者

テレビ・カメラが向けられると、チカゴロの日本人は
オドケテみせる、なんてことは別に普通の光景だが、
かつて、テレビがやっと普及しだした時代、
日本人は、みんな、緊張したり、照れていた。
東京オリンピックの六四年。
水泳の金メダルをとりまくったアメリカ選手に
、ショランダーという人がいた。
この人が、京都観光をしているところが、ニュースになった時のこと。
彼は、カメラが向けられた時、
戯けてみせた。
それを見ていた小学六年生の私は、
ビックラこいた。そんなことをするヤツは、
日本には、誰もいなかったからた。
みーんな、緊張したり、照れたりしていたあの頃。
心も、今とは、違っていたのだろう。それを物語るのは、顔。
意識が変わると、顔も変わる。
たぶん、中国の農村に行くと、大人や子供達のなかに
そうした、なつかしい顔がある。


地獄の黙示録

昔、公開と同時に見たのは、旅先の京都の映画館だった。
いくつもの、エピソードがパーツのようになって、
切れ切れに並び、最後に、カーツ大佐の部分に到達する。
だが、全体的に、バラバラな感じがして、特に
最後の大佐の部分、物語の展開もなく、不満だった。
だが、この京都以来、テレビやビデオで何度見ただろう。
たぶん、十回くらい見た。まるで悪夢のように
いろんなパーツが脳にこびりついていた。
「サティスファクション」のあとの惨劇、
最前基地の闇に浮かぶ光の粒、ベトコンの村を襲う
ヘリの群と、ナパームの爆裂。
何遍も見ると、なにか、体験のように肉化してしまう。
ところが、今日、「特別・完全版」というのを見た。
三時間・十五分。随分長くなっている。いろんなシーンが
長めに入ってるのだろうな、と軽く考えて見ていたら
驚いた。
「フ゜レーボーイのお姉さん達が、慰問に来て
スージー・Qの歌で踊る」場面があったが、なんと
このパートは、やがて、再び、続編として登場するのた゛ったし
その中身ときたら、黙示録そのものだった。
もうひとつ、完璧に消えていた物語の登場があった。
それは「フランス農園」の場面。
そして、初めて見た時思った「エピソードとしての
小さな物語が、パーツのようになって、切れ切れに並んでいる」と感じたものが
「切れ切れ」ではなく、細かいセリフによって、繋がっていたことが判り、
まさに、最初から、「あまりの長さに、カットしなくてはならない」という
苦痛と苦悶の物語だったのだと、判明する。
こうして、完全版を見ると、その長さと新たなる物語の増加で
作品の壮大さは増してくるが、やはり肝心の、
カーツ大佐の部分の、展開の無さが、弱点であることは否めない。
それにしても、何遍見ても
サーフィンやりたくて、ベトコンの村を襲うヘリコプターの
空の騎兵隊の部分、戦争美学の極、攻撃本能の快楽
なんとも、亜細亜人を殺戮する快楽としての、真っ白の銃口そのものに成るのを
感じる。このパーツだけでも、突出して素晴らしい。
そして、物語の最後の場面が、またも整理され変更されて、
「なるほど・ふむふむ」と終わっていったのだった。

七月二十四日


テレビ

そんなに、テレビに出たいのだろうか。
自分の仕事、チャンとやらずに。
持ち場の分別、つかない人のスカスカさ。


アイス・コヒ
寝起きに、台所で冷たいミルクたっぷりに
ネスカフェ入れて、それから砂糖と、
ダイエット・シュガーのあるところの袋をつかむ。
あれ味の素のマーク、へー、ココもダイエット・シュガー作ってたのか
サラサラサラ、で氷りを入れて、かくはんして、グイと飲んだ。
グエエエエエエ、何この味。
味の素の味だ。
たくよう、砂糖置き場に、マギラワシイ袋置くなよなあ。


濃度差
バルサへのファンによる熱い応援サイトがいくつかある。
現地から放射されている「ペンション・チキート」などは
その最たるものだし、日本にも超濃いサイトがある。
ところが、不思議なことに、宿敵レアルマドリへの
こうした日本人によるサイトは、あるのだろうか。
マドリットから放出されているサイトなど、知らないし
日本にある濃いサイトなど、知らない。
トヨタ杯に、最近たびたび来るレアルマドリだが
狂気のような日本人ファンなど、あんまり見たことない。
フィーゴに向かって、「プータ」呼ばわりするバルサ組は居てもな。
四年前、欧州決勝戦付き「レアルマドリ」ツアーと「バルサ」ツアーが
あつた時、レアルマドリは人が集まらなくて中止、
そしてバルサツアーは、濃い馬鹿でイッパイだつた。
熱狂度において、バルサ・ファンの方が多いのだ。
それを証明するために、バルサは欧州を制圧しなければならない。
そして、トヨタ杯に来た時、日本人のバルサ狂い達は
顔を赤くして、身を青くして、サビオラ以上に跳ねるだろう。
ライカールト監督、エンリケ大将の元気なうち、ロナウジーニョと一緒に
日本に来てくれろー。


担ぎ上げている者たち

失言を続ける政治家は、
騎馬戦の騎馬に、乗っているにすぎない。
誰かが、担ぎ上げているのだ。
うま味を吸い合うために、
日本式の、精神構造としての、担ぎ手たち。
その手は、俺の形をもしている。


味覚

長蛇の列の出来る店。本日その手の店に行ったけど
やはり、自分の好きな味では、なかった。
なにが「やはり」かと言うと、味覚つーものは
実は、多数決では無い、ということなのだ。
まず、中華そばで言うと、僕が十八まで
米沢で食った中華は、んまかった。
お昼なんぞに親戚に行くと、「博、中華でもとっか」と
出前を頼む。こうした中華の出前は、米沢では珍しいことではなく
生活の一部としてあったので、自然と町の味は高まっていた。
だから、中華ソバつーものにハズレは無かったし、
「最近、アソゴんまぐねーがら、別なとこにすっぺ」と厳しい場所なのだ。
そんなとこから上京して、七十年当時、東京で食ったらマズイ。
二三軒食って、都会つーものが、いかに「愛情の無い」味かを痛感させられた。
以来、ラーメンだけは外食しない状態の時代がすぎ、一九八十年前後あたりから、
ちまたには「グルメ的やから」がウロウロし始め、腹減ってるから何でもウマイ
大盛りで安けりゃいい、てな意識だけではなく、味のウマイ店が騒がれるようになった。
だが、我が漫画の担当は、七六年に会った時から、当時では珍しいグルメだった。
豚肉を焼くときはショウガをするし、秋刀魚には大根下ろしをオロスという、食うことにマメな奴で、
盛岡などに賢治関係で行くと、味噌屋などを物色しだし、ここの味噌ウマイなどとやったり
ホテルに泊まって深夜すぎまで飲んだぐれていたのに、朝市に出かけ、何が悲しくて
新幹線にネギ積んで帰るのだという風な、食うことに異常にマメなのだが、
彼は早々と、この第一次グルメブームの走りに反応し、アチコチ車走らせて
「ここのラーメン、んまいから」と一緒に行って食う。
だが、「そんなに、うまいかなあ、まずくは無いけどさ」となるのだ。
たとえば米沢で、親戚や友だちにもどこの中華好きかと聞くと、単純に
熊文やヒラマ、では無いのだ。
私の友人で、天丼屋をやっている男、そいつの贔屓は、なんと米沢駅の先、
わざわざそこまで行って食ってるつーので、行って食ってみると、
私には「しょっぱい」感じ。ようするに、味とは微妙なもので
多くの人が並ぶから、ウマイということは、けして絶対的ではない、のだ。
もしも、そうした店に行き、食べてはみたが
どうも自分の味覚ではピンと来ない、ひよっとして私は味覚音痴なのか
などと思っている方などありましたら、ご安心のほどを。
一度、人が並び出すと、列は列を生むけれど
並んでいる者の、その味覚が、純粋に選択している保障は、無いのでござるぞ。


親切

小雨のなか、車を走らせ
窓ガラスにつく雨粒を見ているうち、
昔の雨の日のことを思い出した。
十八の僕は、お茶の水の駅から、
雨の中、デザイン学校へ歩いていた。
傘を持たず、濡れながら歩いていると、
「どうぞ」といって、若い女の人が傘に入れてくれた。
「アテネ・フランセまで行きますので」
「ありがとうございます」そして、歩いた。
雨の中、何を話したでもなく、
なんとも照れくさくて、早くついてしまえばいいような
このまま歩いていたいような
そして、「じゃ」とアテネフランセで傘は消えた。
雨の日の親切。
その人は、覚えていないことを
僕は、一生、忘れていない。


ハレの服装

お祝いの宴会だつーので
メデタイ席だからと、あんまり地味な服じゃなく
派手目を着ていった。なるほど招待された人たちのなかには
一張羅の派手な服着ている人や、頭にカボチャの模型乗せて
胸にボード下げてる人までいた。ところが主賓のシャンシャンの面子は
黒ッぽい服が多く、地味なのである。
ふだんのステージ衣装のハレさから、反転しての渋さと、民の派手さの
コントラストが面白い。


記憶

ジムにいくといろんな顔が居るが
そのなかの老人の顔、なんだかどこかで見たことあるような気がして
はて、誰だったかなあ、と思っていた。
ある日、教育のテレビで「サンダーバート」を見てて、
「あっ、この顔」。なんと、子供のころみていた人形の顔に似てたのだ。


不思議スギル

昔はけっこう見ていたのが
「世界不思議発見」という番組。
ここに出てる黒柳という人の、正解率の高さに
最初は感心していたが、段々、変だと思うようになった。
たとえば、「アンダルシア姫」描くために俺はインカの本、何冊も読んだし、
ペルーのマチュピチュやクスコにも行った。なのに、インカ特集の場合
全然聞いたことないような設問なのに、彼女は涼しい顔で、当てる。
なんだこりゃ、こちとらは想像をするのが仕事だよ、その脳味噌駆使してさえも
外すのに、何故アチラはヤタラと当たるのだい。
ブツフツといってるうち、アントニオガウディの特集があった。
ワハハハハハハ。やったね。
こりゃあ、今度は俺の勝利だぜ。なんたって、ガウディに関する本は
専門店の棚より持ってるし読みまくったし、
バルセロナで買った本だって膨大にある。一次は「ガウディ巡礼」という
ドキュメントの紀行文を本にしようとしたくらいなのだ。
ガヴティにはまって、何遍もあの町には行ってんだ。そんで
田中裕也教授に、いくたびカルトな質問もしてるしな。
こうして、その日の番組の、ガヴディに関する設問。
「あれれ、こんなアイマイな設問にたいし、何と答えればいいのだ」
こちとら、ひとつ浮かんだが、何とそれは正解ではなく
黒柳さんの答えが正解だつた。
ところが、「とてもその答えが正解には思えない」、納得できないのだ。
ただの誰かの説にすぎず、ちっとも説得力の無い答えなのだ。
こうして、2問くらい、納得できないものが出て終わった。
それからしばらくして、バルセロナに行き、ガウディ研究二十数年の
田中教授に、あの番組の設問をした。
すると、俺と同じ、疑問を言い始め、俺と同じ回答をした。
ワハハハ、ハズレだよ裕也さん。すると当然のように
そのテレビの答えがいかに説得力のないものかを、説明してくれた。
まったくもう、研究家がはすじ、ガウディ命の漫画家がはず゜したような
「あいまいな設問」に、答えを出せる黒柳さん、その姿こそ
不思議発見ざんす。


カンダハー

子供のころ、年寄りに昔の話されると
さっぱり判らなかった。
酒飲んでいて、十個くらい下の者との会話のなかで
「ヤッケ」の言葉に、もっと古い時代の
「アノラック」「カンダハー」と言ったら
全然知られてなかった。
まあ、野田は雪国じゃないからなーと思いつつ
私は、お爺さんなのですなー。


逃亡の決心度数

パトカーの窓から飛び降りて、
犯人が手錠かけたまま、逃亡というニュース。
何で、窓なんか開けたんだ、と思ったら
犯人が、失禁した、だと。
これこれ新聞記事、失禁なとどいうあいまいな表現はやめたまえ。
脱糞したのだな。あまりの臭気に窓を開けると
そこから飛び降りただと。どんな悪事を働いたのか知らないが、
脱糞までして逃げようとする、その決意に
感動した。
ちょっとコイズミ風。


どうしてあんなに怖いんだろう

それは、水虫のCM。父親役は、「どーするー、あいふるー」の人で
制服を着た娘が、お父さんにいろいろと水虫についての
アドバイスをしていと、「どうして、そんなに詳しいんだ、
お前、娘じゃないな」と父が言う。すると娘の顔は仮面であり
それを取ると、妻の顔が現れセーラー服で立っている。
怖い、なんとも怖いのだコレが。
父親の、娘へのフガフガ溺愛の視線の先に、妻が突然現れる。
いったい、どんな人がこの台本を作ったんだろう。


弁当は愛情

子供が学校に持っていく弁当。
調子悪くて早退してきた子供の弁当を、食べた。んまい。
時々、朝、妻が弁当を作っているのを見てると
「いいなあ、俺にも高校時代、こんな弁当欲しかったなあ」と、思う。
食料事情も違うから、現代の方がオカズが比較できないくらいイイ。
だが、それだけではない。
俺が高校の頃、学校で弁当を開けると、オカズは
昨日の残り物だけ。そんな日が続き、俺は言った。
「母ちゃん、オカズ、ナニカ作って入れてよ、
残りものバッカリじゃないか」するとオッカサン。
「嫌なら、食うな、自分で作れば」
カアアアアアッと来た俺は、それ以来、
朝、自分で、オカズを作って、弁当を持っていくようになった。
母親から、独立するしかない環境は、素晴らしい。だが
弁当に詰められているのは、オカズじゃない、気持ちなんだ。
世のお母さんたち、弁当は、愛情だぜ。


丹下段平状態

ふだん、眠くなったら寝るので、とても気持ちいいが
仕事の追い込みともなると、そんな楽なことはしてられない。
眠くてもガンバルが、それでも眠いと、意志に反して
突然、布団に、ゴロンとしている自分に気づく。
ダメダ、眠ってはダメダ、と頭のなかで叫ぶのだが、そのとき
「ジョーオオ、立つんだ、ジョー」という丹下段平の声がするのです。


センダアドの七夕

昭和27年・西暦1952年生まれ、つーことは
戦争に負けて、焦土となった日から、七年しかたっていなくて
みんな、生きることに精一杯で、「旅行する」なんて余裕は
なかった。つーわけで、小さい時にアチコチ行くヤツなんて
「ダンナシ」金持ちの米沢弁、の家の子だけだった。
そんな必死の時代の米沢でも、七夕ともなれば、町の中心街
立町・あら町・平和通り・銀座あたりは、笹の葉サラサラの林のように
なっていた。ああ、町の中心は派手なもんだなーと感心していた。
僕が中学生になって、初めて隣の宮城県の仙台に、七夕見に行った。
あまりのスケールの差。線香花火と空に打ち上げられる花火くらいの
派手な差に、あきれ恐れまくった。上には上がいるを痛感させられた。
今、この時の風景を思い出すと、なにか、恥ずかしい記憶がある。
そうだ。、なんとも照れ照れな気持ちで歩いた記憶。
それは、四歳くらいになって、ペラペラ話す妹のにぎやかさが
恥ずかしかったのだ。妹も興奮していたのだろう。
あのとき見た仙台の七夕、あれはたぶん、
子供が見たリオのカーニバルなんだ。


原発イラナイ・焼酎飲ミテー

原発がほとんど止まっている。そして夏がやって来る。
電気不足で、停電の恐れありと、東電は節電のよびかけしているが
真夏の真昼、会社の社内で節電すれば、電力不足は克服できるらしい。
真夏に、スーツ・ネクタイ・上着まで着て、クーラーかけてる馬鹿服装の
日本社会が、ちっと進めば、原発なんか、無くても十分なんじゃないの。
スペインに行き、バルでトイレに行くと
電気はついていない。節電が染み渡っているのです。
電気を大切にしましょう。


悪者たち

失業保険の保険料を使って
厚生省の外郭団体が、日本中に
作りまくった建物。ツカイモノにならず
四百数十億もかけて作った熱海の施設を
八億で売りに出す。ひどいとこは一万5千円で
売りに出す。凄いのは、この手の不始末の責任
誰もとらないという仕組み。
この馬鹿げた採算性の、認可責任者がいまだに
無駄遣い帝国に君臨している、なんてのは
ツマラナイドラマより、もっと感動できる。こつけな
悪者たちを、放置しているのは、
無力感に飼い慣らされたワタシラなのだ。

ある日は三宅島島民への募金、
別な日には拉致家族への援助のための募金
などといいながら集めたお金を、自分たちのものにして
使っている自称ボランティア団体がいるらしい。
騙す人と騙される人。詐欺師と被害者。
ずっと昔から、未来まで、続く行為なんだろなあ。


てん屋さん

「ためしてガッテン」で、身体がヒンヤレするのはドレか
かき氷り・ところてん・アイスコーヒー。この三種を各自に食べさせ
体温を測定したら、45分後も、ヒンヤリしていたのは、トコロテン派だつた。
トコロテンといえば夏の風物。昔の人は知恵ものですなー。
思い出せば子供の頃。ばあちゃんに
小さな鍋持たされて言われたものだ。
「博、てん屋さんさいって、ひとつ買ってきてけろ」
割出町の我が家の隣りは硝子屋・民家・民家・小間物屋となって
このあたりの裏に行く細い道をぬけると、土蔵の建物。そこでお金払って
土蔵の前がガランとしてて、そこに、屋根つきのおおきな井戸みたいなのがあり
水の張ったなかに、トコロテンの固まりが切ってある。
それをひとつ、木製のテンつきの中に入れて
うしろから、ニュウウっと押し棒で押すと、
先から、細かくなったトコロテンが出てくるのだ。
トコロテンの入った鍋を持って、転ばないように帰ってくる夏の午後。

中学生くらいまでは、行っていたような気がする。


美味しいお茶の入れ方

八十度・三十秒
二度目。九十度・三十秒
高いお茶なら、五十度二分だとさ。

習慣とは恐ろしいもので、夕食後、熱いお茶を飲みたくなる。だか゛
米沢時代、夕食後、飲むのは、お茶ではなく、お湯だつた。
上杉の質素倹約のノリの名残で、小皿に残った醤油や
残り物をみんな、お湯のなかにいれで飲む。
それが習慣なので、なんともなかったが、いつぞや
水野邸で、家主がソレをやってる姿をみて、懐かしくもデタラメな感じにギョッとした。
さて、我が家では、お湯ではなくお茶を飲むのだが
この日本茶の茶筒から、サササと茶を急須に入れる時
どうしても、ドッサリ入れられない。
「日本茶は、高い」という気持ちがあって、けちけちしてしまう。精一杯
入れたつもりなのだが、薄いお茶になってしまい、子供に
「とーちゃん、ケチだなー薄いよお」と呆れられ、自分でも情けないのだが
あの茶筒を、ホレホレホレと、勇気タップリ振り出せない自分に
貧民時間の長さを感じるのだ。

六月・十九日


ずうっと昔から、ずうと未来まで

ベッカムが来日した。テレビは成田空港でワーワー言ってる。
報道の浮き上がった姿、乗せられて騒ぐ者たち。
ずっと昔から、日本に起こった現象なのだろう。
報道にたずさわる人間たちの浅はかさ、
無責任さが露呈して、なんと薄ら寒い風景。


循環

斜平山散策日記の画像を、楽しみに見ている。
ちょっと前に、たんぼに水が入り、逆さ斜平が写っていた。
やがて水面から、稲が生えてきた。
斜平の画像は、山だけでなく、その前に広がる里の景色の
変化を見せてくれる。そしてこのたんぼの、季節巡りへの
変化こそ、ワタシが十八年間、無意識のうちに体験した
裏のたんぼの景色でもあるのだ。
気づかなかったり、なんの気なしに見ていた循環が
今、ネットのなかで、目視できる。
他者の視線は、他者を越えて、世界や過去を写してくれる。


アゥエイの恐怖の無い国のおめでたさ

ワタシには、巨人奴隷主義の野球はどうでもいいのですが
阪神が景気がいいのは、嬉しいです。
で、調子こいた阪神のファンが、長良川の球場で
中日と試合して勝ったのをいいことに、グランドに入って客席を挑発していました。
アゥエイ・敵地で、このような行為したら、普通、フチボールでは
命落としたりしますし、まあ、ボコボコにされます。
ところが、日本には、このような敵地感覚が、薄すぎなのです。
サポーターもさることながら、選手までそうです。
かつて、柏レイソル対サンフレッチェ広島の試合。
広島の藤本が、柏のスタジアムで
柏サポぎっしりのゴールに得点したあと、こともあろうに
阿波踊りを踊りだしたのです。その瞬間、むかついたワタシは
最前列にダダダダと行って、野郎に向かって、ツバ吐きました。
届きませんでしたが。まつたく、藤本つー男は馬鹿者です。自分のホームなら
それはいいでしょうが、ここは敵地のスタジアム、しかも柏サイドのゴールなのです。
このような挑発行為を、挑発だと思わない神経、
海外で、やってみればイイのです。ずーっと脅迫されます。
海外の試合観戦だと、アゥイのユニホームは、危なくて着れない
という試合がケッコウあります。ドイツでみたバイエルン対バルサ
ミラノでみたインテル対フィオレンティーナ。
南米予選のパラグアイ対ブラジル。この時、ブラジルのユニホームを
着ていたら、パラグアイのテレビ局に捕まって、なんで日本人が
ブラジル応援するんだと、キツイ目でしつこく聞かれたりしました。
敵地に行くということの恐怖感覚は
日本のジエエリーグでも、ある程度はあってしかるべきです。
和気あいあいの平和のなかでは、どんなに強くなれても、限界があり
そのヌルマサを教えるのは、海外でのアゥエイの厳しさ。
柏のスタジアムに行くと、試合前の場内アナウンスがあります。
「本日の対戦相手のサポーターのみなさん、
柏レイソルは、あなた達を歓迎いたします」
うー、なんて、ヌルイ日本。こんなアナウンスいらねーぞー。


イヌイットの生活

タマちゃーんと盛り上がっている頃
イヌイットの生活が深夜のテレビで流れ
氷上にいるアザラシを、けっこう離れたところから猟銃向けて
頭部に一発。アザラシ即死の場面が
二度も流れて、その淡々とした動きに
北極海の現実と、日本の天国的タマちゃんの
落差を見せつけられた。
荒川のヨットの上で、ヒーローになっている姿を
日本に観光かなんかできたイヌイットの人が見たら
なんと感じるんだろう。タマちゃん見物の人混みに
イヌイットの人が居たら、タマちゃんは、プルッと震えるだろうな。


大衆という海に居る憎しみ

「少年A」この子を産んで」文春文庫。
神戸で起こった連続幼児殺害犯の父母の手記。
父親の体験したドキュメントには、息が詰まる。
突然、警察が来て、やがて事件が発覚した時、
「自分の子供がほんとうに犯人なのか」という、願いに満ちた疑問のなかで
簡単に被害者の家に、謝罪に行けない、という気持ちは
その親ならではの、思いなのだろう。
そして、そうした加害者の家族のもとに、
匿名の腐れ葉書が大量に押し寄せる。

葉書に頭部の絵。
「お前たちが交尾してできた化け物の責任を取れ」

大衆という名の匿名たちの、憎しみの海。
あらゆる他人は、この海に多かれ少なかれ、
身体を沈めている。
それにしても、古来より続く犯人の家族への
仕打ち。その無責任無関係さの残酷さに
飲まれない視線。


自分の癖は、ワカラナイ、で
他人に指摘される。
「マッサンあのさ、酒飲んでる時
どうして急に、筋トレ始めるの」
ニャ。どうやら突然、鉄人28号の飛んでるポーズみたいに
腕を広げて折り、中央に寄せるらしい。
で、ジムに行ってるキイボウドも、酒飲んでると
やっぱり急にヤルらしい。
ジム病と、呼ぶべきか。


恐れの無い道死に導く道なのに輝いている

ジョージハリスンのシングルCDが百円で売っていた。
「マイスイートロード」の昔と晩年版がはいったもの。
やはり、晩年版は、一音一音が、ドキドキさせられる。
そして、死期せまるのを知っていて作ったこのテイクに
ジョージの、死への覚悟と、死へ向き合う姿が感じられ
思わず、「信仰心って、いいものかもしれない」と思う。


割出町のサクランボ

さくらんぼ。といえば、米沢のトショリは「おうと」と呼ぶづさ。
家の裏庭に桜桃の木があって、上の届かないあたりを雀とかが
食うので悔しいものでした。親戚のユウチャンは、大量に食って元ろん町の
家に帰って、夜腹痛いとなり「あんまり、食うがら。腹、煮えてきたんだごで」
などと言われ相手にされませんでしが、翌日になって医者に行ったら、盲腸でした。
私の妹は、ちっちゃいとき、さくらんぼ・いっぱい食って
次ぎにまた食いたくなった時、さんらんぼという言葉わすれたもんで
いいました。
「くいしんぼ・食いてー」


賢治が連れ出す

子供のころから、アガリ症で
人前で話すのはメチャクチャ苦手。
中学の時、全校生徒の前で挨拶させられて
途中で記憶がなくなるくらい・あがつた。
こうして、人前で話す、壇上で語るなどという行為は
私には、とにかく嫌ーなもので
間違っても、喜んで壇に立つ、なんて神経に
のちのち成るとは、思わなかった。
それは、賢治のせいだ。賢治の魅力が
私の体内を通して、吹き出す、その為なのだ。

米沢九里女子高
神戸・増進会
遅筆堂・生活者大学八九
米沢興譲小学校
埼玉・蕨・賢治講演会
長井高校
世田谷文学館・九八
野田市文化会館
草野しん平記念館
逓信総合博物館・三松三朗様との対談
花巻イーハトーブ館・天沢さんとの対談
花巻・イーハトーブ受賞式・ミニ講演二千一


ガーデン

九六年の六月。二十日くらいフチボールのユーロ選手権みるため
イギリスにいた。毎日の観戦つかれで、オフの日にロンドンを
歩くことにも飽きてくると、ちょっとした公園の椅子で
休んでいるつもりが、ホームレス状態で爆睡したりしていた。
そんななかで、小さな公園が、とても印象に残った。
なんとも、デザイン的というか、それが歳月のなかで落ち着いた気配に
なっているというか。そんな風に思ったころ、私はまだガーデンに
はまっていなかった。はまるのはその秋、隣の土地が
売りに出されていたのを買ってからだ。
庭造りは、面白くて、陽が沈むのが辛いくらい、そして
夜が明けると、スコップ持って、植えたり、移動したり。
こうして、熱病のように、庭造りは進行し、作りきるまでは面白かったが
今じゃ、月に一回くらいしか、庭に出ない始末。
こうしてジャングルのようなにった庭。それはそれで風情がある。


二重の住所の終わり
我が家を建てたのは二十年前、そんとき一面
林の中だった。ところがそこが開発され
区画されて、八年くらい前新しい住所名に変更された。
家は動いていないのに、住所名が変わったのだが
今まで使っていた住所名でも、郵便物は配られてきた。
ところが、最近になって、こうした旧の住所での
郵便物が配達されず、問い合わせの電話が
パラパラかかってくる。
しかし、とにかく面倒くさいことの嫌いな私は
住所名を変えたのは、こちらの望んだことじゃないんだから
かつての名称のままでも、キチンと配達してほしいのだよ。


妄想車

最近の若人の車。車内にたくさんの
造花を置いたり、ハワイのレイみたいなのを
ミラーにぶらさげたりしているが
おやっと見たら、運転席の前のスペースいっぱいに
白いものが敷き詰められ、おもわず
「雪か、ぶっかき氷り、敷き詰めてんのか」と思った。その瞬間、
そこに刺身や、海老や烏賊といった寿司ネタの並んでる風景が浮かんだ。
寿司職人の車は、こーでなくっちゃ。
客は、ボンネットに醤油皿のせて、握ってほしいものを
フロントガラス越しに指さすような。


見てみたい

瀬戸内海の海岸で、カブトガニ。


「コスモス楽園記」原稿の動き

行方不明原稿・「コスモス楽園記」
1 スネール話の次ぎの作品
「ノドが鳴る」の3ページ目。

2 スネール話のカラーの4頁目。

「コスモス」は、スコラで単校本化され、
全文、我が家に返却されていた。
次ぎに、扶桑社から、文庫本化される。
そして、それらの返却原稿を、私が整理すると、
ページがそろっていなくて、印刷所からのダイ割りのまま。
そこで整理すると、1 スネール話の次ぎの作品
「ノドが鳴る」の3ページ目。
が無いことが発覚。
ここで、扶桑社担当に、電話。
数日後、「印刷所にありました」という扶桑社からの返答。
で、この段階で、「コスモス」の原稿のうち、
扶桑社にまだ残っている「本文」「カラー」などがあったので
その3頁目と、残りの大量の原稿、
いずれ手渡しで返却してもらおう、と思いつつ、時が流れる。
そして、九八年に、ソノラマから、全集に「コスモス」を入れることになったので
我が家にある原稿は、ソノラマに渡し
扶桑社に残っている原稿は、扶桑社から持っていくように、ソノラマ担当
扶桑社担当に、言う。
この時、扶桑社の担当に、「3頁目も、渡してくれ」と
言ったと思うのだが。

さて、こうして、ソノラマに全て集められたはずの原稿は
すべて、私の所へまっすぐに、返却されたとばかり思っていた。
だが、次ぎのような文章の紙が入っていた。

扶桑社
なになに様

ますむらひろし作品集・第十八巻
「コスモス楽園記」4 朝日ソノラマ刊
収録分のうち、一色原稿
七ページから232ページ
及び
「コスモス楽園記」1から4
収録分を含む四色原稿
B四ボード19枚
お引き渡します

平成十一年五月二七日
ソノラマ担当・なにがし

扶桑社・書籍部
なになに様

この紙があるということは、
原稿は、ソノラマから扶桑社の担当へ
郵送されたのだろうか、手渡しだったのだろうか。

この文章によると、現在紛失原稿の「のとがなるの3」は
この扶桑社への返却の段階では、返却されていないと推定される。
とすれば、
扶桑社から、ソノラマへの移動の段階で
このページは行かなかったのだろうか。
扶桑社担当は、印刷所から見つかった一枚だけの
別な原稿を、どのように残りの本文たちと、管理していたのだろうか。

もう一枚紛失の、2のカラーは、扶桑社で単校本化されたあとの
返却のなかに有ったから、当時、問い合わせなかったのだとおもう。
たぶんこのカラーは、家の中に有るような気がする。



湖水地方

フットボール観戦にはまり、九六年、イギリスをうろうろした時
田舎のほうに行くと、うわあっと思う緑の景色に出会った。
そして、そうした景色が、懐かしかった。
小川に護岸工事が無いのだ。まるで私の小学生時代の
米沢の小川のように。
自然をどうやって残すか。建設省が、得体のしれない政治家が
どれだけ、いりもしない工事をやって、緑の風景を壊したかを
イギリスの田舎は、教えてくれる。


恐怖の原稿返却

ラビットタウンの文庫化の為、原稿をいれているロッカーを開けて、探す。
1話づつ袋に入れて渡したものが、単行本化されて
再び、1話づつ袋にいれて返してくれれば、なにも問題無い。
ところが、単校本一冊分を、ゴソッと返してくる。
もっと恐ろしいのは、ダイ割りのまま、すなわち
印刷された時の状態で、ページがバラバラのままで返却。
それを、こっちが一枚づつそろえていると、
原稿が一枚無かったりして、担当に電話する。
数日後、印刷所にアリマシタ、などという恐ろしい電話。
これは、扶桑社から出した「コスモス楽園記」の一部。

で、こうして、なんとか返却されていた原稿。
ラビットタウンの原稿そろえているうち、全十巻ぶんの
膨大なる量、これを箱につめようとして
楽器部屋にある、朝日ソノラマからの返却原稿の箱をあけて、これを使おうとした。
その箱には、九八年に朝日ソノラマで出した「ますむらひろし作品集」の
「コスモス楽園記」の原稿が、まだ、ロッカーまでもどされずに入っていた。
ところが、キチンと袋につめられたそれらの原稿に
ソノラマの担当の注意確認文字。
「111ページの原稿無いので、本文から起こす」
なんだと。別な束を見れば
「122ページの原稿無いので、本文から起こす」
あれ、なんで、こんなことを、紙に書いただけで
俺には、知らせないんだ。
そして、もっと恐ろしいことに、別な紙にはこんなことが書いてある。

「扶桑社・なになに様
コスモス楽園記十八巻・本文と全巻のカラー
そちらへお返しします。
ソノラマ担当なにがし」


箱開けて見れば、確かに十八巻まるまる原稿が入ってない。
なんで、こうなるのだ。なんで作者に返さないのだ。
扶桑社に、原稿を返してしまったわけは、この全集を作る当時
この部分の原稿が、まだ扶桑社にあったのだ。
だから、ソノラマの担当は、扶桑社へ原稿を取りにいって
単校本を作って、作者に返却せず
作者に何の確認もとらずに、扶桑社へ返却していたのだ。
あまりに、機械的。
ソノラマの担当は、キチンとしていたので、十一巻から
全十巻の本を作る過程で、キチンとマメに原稿を返却をしていたので
テッキリこのような、作者に返さず扶桑社へ返還、などを
しているとは気づかなかったのだ。
そして、五年もたって、イマゴロ、こうして
ラビットタウンの文庫化の為に、いじりまわしているうち
原稿返却されていないことに、気づいたのだ。
まったく、もう。

原稿を描いたのは、俺だ。
描いた奴にしかワカラナイ、原稿の尊さを
担当に、判れというのが、無理なのだろう。

ああ、まったく。


酔っぱらいの割り勘

五人で呑んで、11600円。
「じゃ、一人、千円」と、4枚の千円集めて
残り払う。もー、計算がボロです。


偏執的授業
小学五年の時、三宅島が噴火した。その噴火の凄さは
俺に感動を与え、火山に興味持ち、図書室にこもってノートに
火山の記事写し、将来は火山学者になりたいと思った。
こうした日々のあとに、理科で「火山」の箇所にきた瞬間
楽しみにしていた授業が、あまりに短く、上っ面で終わり
メチャクチャ落胆した。
好きなことだけ、勉強させたら、毎日、火山だけ勉強させたら
俺は、偏執的に相当違った道を歩くことになったような気がして
学校という長い牢屋も、別な形になつたような気がする。
すべての子供が、偏執的とは思わないが、ひとつのことに
熱中する奴が、そうした興味にトコトン走ったら、現代の域を
ブチコワス可能性は、アルと思う。


シュテーリケ
カタールで開かれたフツトボール・アンダーナントカ。
ドイツ対セレソンの試合。ドイツの監督の名前聞いて、おお。
「シュテーリケ」。なんと、こんなところで仕事していたのか。
彼は、私にフットボールの凄さを教えた人の一人、なのだ。
それは、82年スペインで開かれたワールド杯。
準々決勝、西ドイツ対フランス。
まるで、映画のような試合だった。
1対1で延長戦に入ると、フランスは、ジレス、ティガナ、プラティニの
活躍で、二点取って、三対一。ああ、フランスの勝ちだな。
すると、すると、西ドイツのルンメニゲの、高等テクニックのシュートで
三対二。そして、ドイツはもう一点入れて追いつき、PK戦になる。
そして、西ドイツのシュテーリケが、外すのだ。
彼は、膝を抱えて座り、泣いている。
それを励ましているのがリトバルスキー。そして、カメラ視線は
リトバルスキーが慰めつつ、突然、歓喜するのを映す。
フランスが外したのだ。こうして、壮絶な最後はドイツの勝利。
この大会をテレビで見て、私はフットボール世界に、のめり込んだのだ。
西ドイツ対フランス、そしてセレソン対パウロ・ロッシ炸裂のイタリア。
この2つの試合こそ、フットボールの魅惑そのもの、だつた。


地震見物
小学校の五年のころ、新潟地震というやつがあった。
昼すぎて、早飯の私は、校庭で遊んでいたら、グラグラ。
立っていられず、ひざまづいた。古い校舎の窓ワクが揺れ、次々
窓硝子がガッシャーンと落ちてくる。スゲー。そして校舎のなかから
出てきた連中は、相当ビビってた。
地震がおさまっても、校舎の壁が落ちたりしているので
校舎に戻らず、そのまま集団下校となったのだが、
「なあ、瀬戸物屋、見に行くべ」と、言ったのは私です。
糞ガキども数名は、チャリンコで集合して、さっそく
瀬戸物屋に行く。スゲー、めちゃくちゃだ。
さあ、次の瀬戸物屋行くぞー。
翌日、全校生徒の前で、先生の御挨拶。
「昨日、瀬戸物屋などを回った、不届き者がいたそうだが」
あせったぜ。


消耗顔
年末に5時間に渡り、ビートルズが放送されて
アレから何年なのだろう。こんときのヤツが最近
DVDになったのだが、当時録画したビデオを
見ていて、アレレと思ったのはCMの時の
タレントたち。
あれれ、この人たち、今、どこに居るのだろう。
何年もたったわけじゃないのに、なんとも消えることの早い世界。


唐桑半島

ダッシュ村のソーラー・カーが、唐桑半島を
走っていた。宮城県の端っこ、岩手のリアス式海岸の
南部に位置するこの半島が、
メチャクチャ懐かしい。高1の夏休み。
美術クラブの合宿で、この半島のお寺みたいなところに、泊まった。
その時、私は、初めて、まともに魚を食ったのだ。
たぶん、魚の煮付けのようなものだったが、
当時、我が家は魚屋をやめていたが
子供の頃から、魚大嫌いで、このような煮物なんか
絶対食わなかった。ところがなにしろ
空腹で、どえらく歩いてやっとこついた宿。
そして、海辺で出す鮮度のよさ。
「魚って、こんなに、ウマイものなのか」
その晩、十六年間、突っ張ってきた「魚嫌い」が
崩壊を始めたのだった。


地球の歩き方・掲示板

私がバルセロナに行くと、定宿としているのが、ペンションチキート。
「チキート」でGoole検索したら、「チキート最低」という書き込みが
出てきた。それは、地球の歩き方のサイトの掲示板だった。
書き込みによると、オーナーに怒鳴られたとある。
ふーん。ワタクシ、6度くらい行き、のべて3ヶ月くらい泊まっていたが
怒鳴られたこと無いし、怒鳴られるヤツなんか、見たことない。
チキートの中央の部屋での、一夜かぎりの
旅人同士の酒盛り、そうしたスペースこそ、旅の楽しさであり
そうした空間が作られていることの、素晴らしさ。
長期で見たのは、旅慣れたヤツの図々しさや、
「イギリスじゃ、こんなこと無かった」とかいう馬鹿女とか
まあ、とにかく、泊まるヤツのヒドイのをイッパイみて、
オーナーって、大変だなやと思ったものだ。
書き込みのたぶん女性の、怒鳴られる理由なんて、どうみたって
それだけで、叱られるわけがない。自分の都合の悪い点を
キチンと書いていない風なのだ。あるいは、
「自分が昨日泊まったのに、今日は別の宿にして
その夜、チキートに行ったら、客じゃないんだから、帰れと言われた」などと
抗議の書き込みするヤツなど、非常識な馬鹿なのだ。
どこの世界に、チェックアウトした客が、その夜、またノコノコ
ペンションの中に入ってくるなんて、考えが甘いのだ。
さて、こうした一方的な書き込みで、
「このペンションはヒドイ」など゜というものは、明らかに
営業妨害なのに、、地球の歩き方の
「掲示板に書かれたことへの、責任は、当社には無い」という態度は
あきらかに、責任放棄なのです。


勘違い

何を生んだ訳では無い。
偉人の残した船に乗っているに、過ぎないのに。


手紙の著作権
宮沢賢治からの手紙が、大量に行き
それを捨てることなく保管していたのが学友、保坂嘉内だ。
賢治から、法華経への入信を激しく迫られ
ついには、絶交状態になっていったのに
保坂は、賢治が書いた狂気の手紙たちを、処分せず
保管していた。そうした行為により、賢治の内面が
残されるという、賢治ファンにとっては、
感謝の勲章を一山あげたくなるような、保坂の業績。
こうした手紙の存在が知れたのは、昭和四十年以降らしく
「友への手紙」という形で、本になった。
本の内容は、賢治が保坂に出した手紙、
すなわち、賢治の文章の本である。
そして、この手紙の所有者は、保坂家である。
さて、問題。この本の印税は、誰に支払われるのだろう。
保坂家だろうか、宮沢家だろうか。
私には、この印税の行方は、もちろん判らないが
法律的に言うと、どうやら
賢治の書いた文面の著作権は、賢治にあり、
保坂家には権利がなく、宮沢家にあるということになるらしい。
一瞬、あれれ、という気持ちになる。
葉書をもらったら、葉書はもらった人のものなのだから
その文章の権利も、もらったように思えるが、どうもそうでは無いようだ。
賢治の貴重な考えが記録された手紙、
これを大切に保管していた保坂嘉内や保坂家の
気持ちに対して、なにかしらの「権利」は、無いのだろうか。


猛猫ロック
タケネコの季節である。
「みにゃあああごおおおおお」「ふんげえええあああうあうあ」
馬鹿みたいな大声で、叫び合う声が、家の近所で起こるだび
ドキッとする。あらら、ウチの猫では、ないかいな。
そして「あー、増村さんちの猫がわめいてる」などと
思われているのではあるまいか。そんな不安のなかで
家の四匹のメンツが、全員自宅にいたりすると
「みなさああん、わめているのは、ウチのじゃ
アリマセーン」と、アナウンスしたくなる。



風呂焚き水くみ
米沢の我が家に水道が来るまで、とうぜん井戸水を
ガッチャンガッチャンと長い棒みたいな枝をおして
汲み上げ、その口に雨樋みたいな筒をつけて、左側にあった風呂桶に
水を入れていた。こうした風呂の水くみ、小学生のころ
やらされていた記憶がある。そして、風呂の火をつけるのは
中学生前後、私がやっていた。
ようは、毎晩、キャンプファイアーをやっているようなもので
新聞紙を棒状にしたり、小枝をうまく空間つくって置いたりして
慣れれば、毎晩簡単に、風呂の火をつけて
薪つっこんで湧かしていたのだ。家は魚屋をやっていたせいで
魚箱がたくさんあつて、そうしたものをバラしていたから
薪には不自由しなかったんだな。五十二年生まれの人間は
風呂焚きなんかした記憶、ある世代の最後に近いんだろーな。


科学漫画

「海馬」という本のなかに、盲点のことがあつた。
2つの点を印し、それを片目で見て距離を移動していると
ある位置に来ると、二点のうちの一点が消えるというもの。
これをみた瞬間、私は白土三平さんの「ワタリ」に
登場する「四貫目」の武器を思い出した。
それは、カブト割りというもので、こうした盲点を利用し
相手が武器を見えなくなるというヤツ。その説明のときに
このことを、図で説明していたのだ。
三平さんの漫画には、このような科学的解説の場面が
ときどき現れ、感心したものだ。
「サスケ」のなかで登場する「翡翠」の沼。
そこにはピラニアみたいな魚がいるので沼には入れない。
そこでどうするか。
小学生だった私は、その場面の実験図をみながら
割出町の我が家の台所に、洗面器をおき
そこに、蝋燭を立て、水を入れる。そして
蝋燭に火をつけて、それから、その蝋燭に
大きなガラスコップをかぶせる。
やがて、火が消えると、水位はどうなるか。
理科の実験を、忍者に教わったのでした。


一九七八年

ディラン初来日。僕は東京公演五回のうちの
三回見に行った。それまで、いろんなコンサートを見てきたのだが
「お客が、緊張している」というモノは、これが初めてだった。
途中休憩で、トイレに行くと、みんなが「ふーっ」としていた。
「あれか、あれが、ディランなのか」といった風で、
すでにディランは、そのへんの外タレではなく
伝説の域に居た。
「ボブディランがやってきた」という、その時の特番。
村上龍のルポのこの番組、当時も見たのだが
ジュリーの正面5列目に座ったのコメントに、「てめええ」と当時ムッとした記憶あるし
日大の学生運動リーダー秋田明大と村上龍の
言葉のつまるインタビュウの、間のもたなさも、覚えている。
さて、今回、二十五年ぶりに、当時の画像みると
いろんな「皮」が剥げて見えてくる。
泉谷しげるの服装、凄いですねー。
一生懸命、オシャレしていた姿が写し出されて、もはや身動きとれませんし、
いろんなひとが、いろんなこと言ってますが
ほとんど、今日までに、響く言葉、無いです。
ナンテコトでしょう。みんな、イカサマなのでしょうか。
二十五年たったら、みんな、その時代に呑まれていただけで
キッチリ、沈んでいることが、証明されたような
そら恐ろしいものが、映っています。
それにしても、七八年って、七十年学生運動の
残骸がまだ、ガラガラと音を立てていたんだなあ。
特番中に流れる、ライブ盤「激しい雨が降る」、カッコエエ。

五月十一日


庭園は意識

庭造りにはまった九七年あたりから、欧州にフチボウル
見に行くたび、都市の公園や、城の庭園などを、フムフムと
見るようになった。
こうして、欧州の庭園のパターンを見ていると、シンメトリー、
巨大さ、遠近法、などのスタイルから、最初は、オオオっと
感動もするが、そのうち、ナンカ飽きてくる。
なんといいましょうか、単純なのだ。ハッキリしてるのだ。
そして、突然、そのコチラ側にある日本庭園を、意識したとたん
日本の美の、複雑さ、極みが、薄ボンヤリと感じられてくる。
庭は、意識。日本庭園のなかに、日本人の無意識が
眠っている。五月十一日



ディラン火山
「生きることは、唄うこと」と、プロの歌手なら、言うだろうし
一年間に、三百日近く、ライブをヤル人も居ると思う。
それはタフでなきゃやれないだろうが、精神的にも
相当のタフさが必要だ。
だが、驚きは、六十歳を越えたディランが、こうしたハードな
ツアーを、今もやっているということだ。
そして、ネットで検索すると、現在進行のツアーの日程が現れ
前日までにヤッタ演奏曲リストが、きっちりアップされているということ。
つくづく、ディランは、カルトなファンを世界中に持っているなあと思うのだが
その、演奏曲を見て驚く。
ストーンズの世界ツアーの選曲リストと比較すれば、歴然とする。
たとえば、十日間の選曲種類の合計、ストーンズならほとんど変わらないのに
ディランの場合、ドンドン増えていくのだ。
日替わりで、いろんな曲が現れる。私は今までに五回しか見ていないが
「マイティクイーン」や「シービロングストウミイ」や「ゴイングノウエア」
など、聞いてみたいが、当然、キャラメルのオマケみたいに
長いツアーの旅のなかで、突然、そうした曲が登場している。
となると、カルトなファンは、追いかけツアー状態になって一緒に旅をすることになる。
私は、プロのミュージシャンなんぞと飲酒すると、何度か質問したのは
「同じ曲を歌って、その曲に飽きないか」ということだった。
ましてや「同じメニューを唄い続けるツアー」なんて
苦痛にならないのだろうか、ということだった。なぜなら
そうした行為は、マンネリであり、客が飽きるのは、歌い手の腹のなかが
見透かされ、「腹のなかで飽きている」ことがバレているからなんだ。
ポールマッカートニーでさえ、新しいアルバムの曲ばかりで
ツアーをすれば、客が来なくなる。結局、ビートルズ時代の
曲を前面にすれば、観客動員は増えていく。
そうしたなか、ディランだって、「らいかろーりんぐすとーん」は
いまだに、毎日唄ってるみたいだが、それでも
日々「生きることは唄うこと」のなかで、
日替わりメニューのように、次々と現れる名曲、
そうした曲をまき散らしながら続く、旅の音楽家。
曲のコードだけは変わらず、メロディラインがほとんど
変わっていくことの、その新鮮さ。
ああ、「べび・れっとみ・ほろゆ・だあああん」。

http://www.bobdylan.com/live/index.html


推薦図書

「人形作家」四谷シモン著。講談社新書。
六十年代の鍋が沸騰する瞬間が映っている。
まるで唐十郎の芝居のような幼児体験を、越えてきた男の自伝。
作る、創る、造る。それは、才能ではなく、運命なんだ。

最近、横尾忠則主演の「新宿泥棒日記」という映画を
見て、そのなかに、状況劇場の「由井正雪」の芝居の場面があり、
四谷シモンは、女装して出ていた。状況でのその姿を見るのは
初めてだったが、迫力があった。私が大好きな
大久保鷹よりも、「怪優」していた。
ビートルズが、サージェントペパーを造る時代、その地殻変動は
やっぱり、地球規模で、起こっていたんだなあ。


巡る

春のホンワカな季節が来ると
それなりの、不思議な気持ちになる。
季節の移ろいで、次ぎのページをめくると
なにか、気持ちも、変化しているく。
そうして巡っていき、また新しい一年が
始まると、昨年と同じような、それでいて
何か、新しい今風な、気持ちになっている。
こうした気分を、小さいときから繰り返してきたのだなあ。
五月に入るこの時期、野田では
たんぼに水が入り、キラキラしている。


笑うことは、良薬なり、

笑うと脳から、ナニカ発散されるらしい。
下半身不随になった人が、毎日笑いのビデオを
見て、笑っていたら、歩けるようになつた、てな話。
馬鹿笑い、思い出し笑い。含み笑い。
二十秒、ゲラゲラ笑うことが、良薬とな。
寝る前に、赤ちゃんの微笑む顔や、楽しいことを思い出して
笑うつーのは、健康にイイのだそーです。
笑う角に、福くるのは、当然だったのだ。
それにしても、思い出して、笑える逸話って
私に、どれだけアルのだろうか。
ううむ。など悩んでないで、
「見つめる前に、笑え」


路上アンケート

春ともなると、都市には新しく田舎から出てきた人が
ゾロゾロと湧いてきて、それを狙った路上アンケートの
ヤカラも、活発に活動する。
もう、三十年以上前になるが、私も高校でて田舎から出てきて
そのアンケートに引っかかったのだ。
米沢には、そんなアンケー人など居なかったから
東京で、「すいません、アンケートお願いします」などというと
人のいい田舎者は、「はいはい、なんでゴザイマショー」なと゛と相手して
いろいろと聞かれ「今、持っているお金は、2千円以上」とかいうとこに
返事してしまう。「はい、ありがとうございました、これお礼の
映画上映券です」などというわれ、その券もらって帰ろうとすると
「すいません、千円です」と言われる。
こちらは、お礼としてもらったつもり、しかも、親切そうに話し込むから
気持ちがユルクなっている、その上「今、お金無い」と返事したくても
アンケートで「2千円持ってる」などと答えている。
こうして、「千円すんのー、じゃあ、イラナイよ」と返事できず
しぶしぶ千円払ったのだ。カスみたいなチケット渡されて、歩きながら
じわわわわん、と悔しさが湧く。じわわわんと、都会は甘くなぞと
田舎者の私に言う。それにしても当時の千円。
とても、高価な千円だった。
映画上映券といっても、まともな映画館でやるものではなく
どこかの会場を借りての、ろくでもなて映画。
とても、見る気などなく、こうした悔しさの中
アンケート調査などというふざけたシステムの、洗礼を受けたものだった。
気をつけましょー。ミナサン。


チョンマゲ議員の髪の切り方

暴力団に秘書給与を肩代わりさせていたことが
発覚、議員辞職を迫られた議員。
彼の頭髪の後ろにのばし、縛っていたチョンマゲのような
髪を切ってしまった。
ワタクシ、この人興味無いけど、あのチョンマゲを
目玉のようにしていたクセに、
反省として切るという行為が情けない。
反省するなら髪の毛みーんな切って
つるつるにしつつ、しかし、ダイゴロウのように
チョンマゲ部分たげ残している。
そうした頭にしたら、私は、許します。


腹痛い

http://euro2002.hp.infoseek.co.jp/orita_top.html

青き衣、痺れた。


親父駄洒落

息子と車で回転寿司に向かう途中、浮かんだ駄洒落。
「問題です。イタリアで、お巡りに馴れ馴れしい街は
どこでしょう。」

なあ、ポリ。


豚カツ

野田の町をボケーッと走っていたら、豚カツ屋があつた。
「そういえば、昔、編集が来て、打ち合わせの時、野田で
豚カツ食ったことあったなあ。」
漫画の連載が始まる前、私は仕事らしい仕事もせず
いったいどうやって生活していたのか、というくらい
カスカスの生活をしていた。当然、食事もギリギリで
豚カツを、お店で食う、なんてことは、贅沢の極みだった。
編集がうち合わせで、そんな店につれていく瞬間
足がフワフワ浮いているくらい、嬉しかった。
若い頃は、エネルギッシュだから、豚カツを食いたいと
思ったが、魚好きになっていくにつれ、わざわざ店に行ってまで
豚カツ食いたいとは、思わなくなった。
してみると、豚カツこそが、私の青春つーことなのか。


極貧のオアシス

野田に来て、ペンキやで働いたが、三ヶ月くらいで
嫌になり、以来、バイトの生活のよーな、よくワカラン生活を
していたが、当然、食うものにお金はかけられない。
さりとて空腹はタマラナイ。そんな私にとって
ホワイト餃子は、素晴らしいものだつた。夕方の四時
店が開くと、すぐに行き、当時餃子は一個10円、
それを二十個頼めば、腹いっぱい。
そして飲酒をしなかった私は、コーラ六十円。
こうして二百六十円で、満腹になり、それから、緑湯に行き
そのあと、カンパ小屋に行く、つーのが平和な
極貧の生活だった。週に三度はホワイト餃子状態をやっていたら
六十s台の体重がスッスッと太ってきたのでした。


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