最後の希望
| 京子は孤独だった。 一人息子を二月前に交通事故で亡くしてから、夫は息子が死んだのは、全てお前の責任だと毎晩のように彼女を責めたてた。ある時は、体中に痣が出来るまで殴りつけられた事もあった。とても結婚生活を送れるような状態ではなかったから、京子は逃げるように叔母の家に移り住んだ。 叔母は不動産業を営んでいて、K市にある木造の二階建てアパートの一室が京子の為に用意された。京子は夫には住所も連絡先も教えなかった。 駅前の商店街にある小さなスーパーマーケットで京子は働き始めた。彼女はそこで鮮魚や肉を解体したり、パック詰めする作業をしていた。 周囲に親しい人間は一人もいなかった。京子自身が、内気な性格だったのにも原因があったし、夫に虐待された記憶が彼女を強く束縛していた。 「京子さん。こんばんは」 仕事が終わり、京子が自宅へ帰る為にアパートの鉄拵えの階段を上っていると、叔母が階上に立っていた。 「今月の家賃の事なんだけれど」 「すいません。あと十日だけ待って下さい。その時には、必ず全額払いますから」 「旦那さんにひどい目に遭わされて可哀想だとは思うけど、もう、いい大人なんだからしっかりしてちょうだいね。それじゃ、十日後にまた来るから」 叔母は京子の脇を通り過ぎていった。きつい香水の香りが匂った。 台所で夕食の準備をしながら、自分でも気づかないうちに京子は涙を流して嗚咽していた。それから、包丁の柄を拳骨が白くなるほど、きつく握りしめ――馬鹿野郎。お前ら全員死んじまえ――罵声を心の中で喚き続ける。 居間の机に小鉢を並べ、息子が生きていた頃の感覚を思い出す。しかし、向かい側の椅子には、誰もいない。そして、これからも誰かが座る事はないだろう。 京子が食器を棚にしまっていると、突然、白い光が視界に入った。向き直ると、靄のように不安定な明かりが、緩慢な動きで空中を漂っていた。 光はまるで、最初からそこに存在していたかのように、京子の傍らに近づいてきた。 「僕は悪い宇宙人と戦っているんだ」光が語りかけてきた。 「地球は彼らに侵略されている。みんなにその事を知らせなきゃならない」 光の言葉が意識に直接流れ込んできた。不思議な事に京子自身もそれを自然と受け入れた。 「どうすればいいのかしら?」 「警察や役所に手紙を書くんだ。それから、電話も。とにかく、みんなに危機が迫っている事を知らせなくては。奴らはもうすぐそこまで来ているから」 光に言われるがまま、京子は取り憑かれたように手紙を書き、方々に電話をかけた。仕事は無断で休んだ。きっと、辞めるだろう。だが、今ではそれも些細な出来事に思えてくる。 返事は何処からもかえってこなかった。京子はひどく落胆した。地球に危機が迫っているというのに、どうして、みんなは平然としていられるのだろう。 「みんな、既に悪い宇宙人に操られてしまっているのかもしれない」光が言った。 「地球上で操られていないのは私達だけなの?」 「そうかもしれない。世界はこんなにも悪意に満ちてしまっている。全て、彼らの仕業だよ」 それから、京子は自分がどんな目に遭ってきたか思い出した。そうだ。私の人生が不幸なのは、悪い宇宙人達のせいに違いない。よってたかって、彼らが私を攻撃してきたのだ。 数日後、叔母が部屋を訪ねてきた。彼女の顔には怒りの表情が浮かんでいた。 「こんにちは。叔母さん」京子は叔母を部屋に迎え入れた。 「京子さん。お話があるのだけれど、最近、あなた仕事を何日も休んでいるらしいじゃない。店長からうちに電話があったわよ」 「ええ。ですが叔母さん。聞いてください。私には大事な使命があるのです。地球に危機が迫っているのです。私はその事を人々に知らせなければなりません」 いつの間にか、叔母の表情は怒りから当惑へと変わっていた。 「あなたはどうかしているわ。きっと、何かの病気なのね。そうに違いないわ。一緒に病院に行きましょう」 叔母が京子の腕を無理矢理掴もうとし、二人はもみ合いになった。 「そいつは悪い宇宙人だよ」光が耳元で囁いた。 「悪い宇宙人は殺さなくてはならない」 光に言われるがまま、京子は台所の引き出しから包丁を取り出した。 「そんなもの持ち出して、一体、何をしようって言うの!」 叔母が言うが早いか、京子は無言で包丁を叔母の胸に突き刺した。何度も。何度も。 私には使命がある。私は地球を守らなくてはならない。その為に選ばれた特別な人間なのだ。 「よくやったよ。頑張ったね」光が京子を祝福した。 初めて、誰かに認められたような気がして、京子はとても幸せな気持ちになった。 京子は叔母の死体を毛布に包むと、やっとの思いで浴槽の中へそれを移動した。 数週間後、京子の自宅を二人組の警察官が訪れた。二人は行方不明になった京子の叔母を探しに来たのだが、京子が扉を開けた瞬間、腐液の放つ強烈な臭いに悶絶した。 警察は直ちに京子を殺人の罪で逮捕した。 拘置されている間、京子は何もない空間に向かって、話し続けた。 哀れな京子。彼女の瞳に映るのは、自らが生んだ妄想のみ。 |